緑の口笛

ホラー

理科準備室の片隅に、それは置かれていた。
大きな瓶の中、湿った苔と泥の上に根を張り、まるで口を開けたような形をしている――食虫植物。
名札には「ネペンテス」とあった。

三年生の美咲は、放課後の掃除の当番で初めてそれを見つけた。
瓶の内側には細かい水滴がついており、吊り下がる袋のような葉の中には、なにか液体が光っている。
「虫を、食べるんだよね……」
声に出すと、瓶の中の葉が、ほんのわずかに揺れた気がした。
風は吹いていないのに。

その日から、美咲は毎日こっそり理科準備室に通うようになった。
先生に頼まれていたわけではない。
ただ、なぜかその植物の前に立つと、心が落ち着いた。
家では両親の喧嘩が絶えず、教室でも友達と距離ができていた。
誰にも話せない思いを、この植物なら聞いてくれそうな気がしたのだ。

「今日ね、またお母さんが泣いてたの」
ガラス越しに話しかけると、袋の縁がしっとりと動き、透明な液がわずかに増えたように見えた。

次の日も、その次の日も、美咲は話した。
「体育のチーム決めで、誰も誘ってくれなかった」
「クラスのグループLINE、私だけ入ってないの」
「もう全部、なくなればいいのに」

そのたびに、植物の袋はゆっくりと開閉し、まるで返事をしているようだった。

ある雨の日、理科の先生が声をかけてきた。
「おや、美咲。ネペンテスが気になるのかい?」
美咲は慌てて首を振ったが、先生は穏やかに笑った。
「この子はね、虫を食べるけれど、実はとても繊細なんだ。水が多すぎても少なすぎてもすぐに弱る。光も、強すぎると枯れてしまう」
そう言って、瓶のふたを少し開けた。
中の甘いような腐ったような匂いが漂い、美咲は思わず顔をしかめた。
「けれど、不思議だね。この子、最近ずいぶん元気だ」
先生はそうつぶやいた。

その夜、美咲は夢を見た。
緑の蔓が足首に絡み、どこまでも伸びていく夢だった。
暗い森の中で、彼女の声を吸い上げるように植物が囁いた。
――もっと話して。
――もっと、あなたの悲しみを。

目を覚ましたとき、胸が妙に軽かった。
何かを吐き出したような安堵があった。
学校に行くと、瓶の中のネペンテスはこれまでになく大きく膨らんでいた。
袋は三つに増え、光沢を帯びている。

美咲はガラス越しに笑いかけた。
「ありがとう。聞いてくれて」

しかし次の週、理科の先生が驚いた顔で言った。
「変だな……他のクラスの標本がいくつかなくなってる」
薬品瓶や昆虫標本が忽然と消えていた。
美咲は心臓がどきりとした。
あの植物の袋が、前よりもずっと膨らんでいるのを知っていたからだ。

その放課後、美咲は瓶のふたをそっと開けた。
「もう、誰もいなくなればいいのに」
その言葉と同時に、植物の袋が静かに開いた。
中から、湿った風のような吐息が漏れ出す。
「……ねえ、あなた、本当に聞いてるの?」

次の日、美咲の姿は学校から消えた。
机の上には、理科準備室の鍵だけが置かれていた。

理科の先生が準備室を開けると、瓶の中のネペンテスはさらに巨大化し、葉の袋がひとつ、淡いピンク色に染まっていた。
瓶の中で、どこかで聞いたような口笛の音が、かすかに鳴っていた。

その音は、まるで少女が笑っているようだった。