朝の光が台所の棚をやわらかく照らす。
ガラス瓶の中で、赤い果実がきらめいていた。
いちごジャム。
香織はその瓶のふたを開け、そっとスプーンを差し込む。
甘酸っぱい香りが、ふっと鼻をくすぐった。
――この匂いを嗅ぐと、いつも春を思い出す。
実家の庭には、小さな畑があった。
祖母が育てていたいちごの苗は、毎年三月の終わり頃に白い花を咲かせ、やがて真っ赤な実を実らせた。
香織は幼い頃、しゃがみこんで実を摘むのが好きだった。
指先に伝わるやわらかな感触と、摘みたてのいちごを口に入れたときの、あの瑞々しい甘さ。
「摘んだ分はジャムにしようね」
祖母の声が蘇る。
大きな鍋にいちごを入れて、砂糖を加えて火にかける。
ぐつぐつと泡立つ赤い液体を見つめながら、祖母は木べらでゆっくりと混ぜた。
香織はその横で、湯気に包まれる甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、「魔法みたいだね」と笑っていた。
それから何年も経ち、祖母は他界し、香織は都会で働くようになった。
仕事は忙しく、季節を感じる余裕もほとんどなかった。
朝はコンビニのパン、昼はパソコンの前で片手におにぎり。
家に帰る頃には、ただ眠るだけの日々。
そんなある日、実家の母から小包が届いた。
中には、新聞紙に包まれた数本の瓶と、短い手紙。
「おばあちゃんの畑、今年もいちごがなったよ。少しだけど、ジャムを作っておいたから」
その夜、香織はパンを焼き、手紙を読みながらジャムをすくった。
深い赤色がトーストの上に広がる。
ひとくち食べると、あの春の味が舌の上に蘇った。
甘さの奥にある、ほんの少しの酸味。
祖母が作っていた味と、まったく同じだった。
香織はその瞬間、涙が出そうになるのをこらえた。
――変わらない味って、こんなに心を温めるんだ。
それから彼女は、休日のたびにスーパーでいちごを買い、自分でもジャムを作るようになった。
鍋にいちごを入れ、砂糖を混ぜ、火にかける。
ゆっくりと木べらを動かすその手の動きが、少しずつ祖母の姿に重なっていくようだった。
「焦らずに、泡が落ち着くのを待つんだよ」
記憶の中の祖母が、そっと教えてくれる気がした。
瓶に詰めたジャムは、友人にも分けた。
「香織のジャム、やさしい味がするね」
そう言われるたびに、彼女は少し照れながらも嬉しくなった。
ジャムを作ることは、単なる趣味ではなく、誰かと心をつなぐ時間になっていた。
春の終わり、窓を開けると、風に乗って花の香りが部屋に流れ込んできた。
香織はトーストにジャムを塗りながら、スマートフォンを取り出した。
「お母さん、今度そっちに帰るね。いちごの畑、手伝いたい」
そのメッセージを送ってから、彼女は空の瓶を一つ手に取った。
透明なガラスの中に、光が反射して虹のように揺れている。
瓶の底には、かすかに残った赤い跡が見えた。
――また来年も、この瓶を春色で満たそう。
香織は静かに微笑んだ。
いちごジャムの香りが、部屋の中いっぱいに広がっていた。

