ヒヤシンスの香り

面白い

春の風が街の角を曲がり、古いアパートの窓辺に並ぶ鉢植えの花たちをそっと揺らした。
その中で、ひときわ鮮やかに咲き誇るのは、薄紫のヒヤシンスだった。

結衣はその香りが大好きだった。
朝、仕事へ行く前にカーテンを開け、花に霧吹きをかける。
ほんのり甘くて、どこか懐かしい香りが部屋いっぱいに広がると、胸の奥が少し温かくなるのだった。

ヒヤシンスを育て始めたのは、去年の春のこと。
引っ越したばかりのこの部屋は静かすぎて、夜になると心の音が響くように感じた。
そんな時、近くの花屋で見かけた小さな球根に、なぜか目が留まった。
「春には、いい香りがしますよ」と店主が言って、優しく包んでくれた。

結衣は花の世話などほとんどしたことがなかった。
でも、あの球根を土に埋め、水をあげる時間が、いつしか心の支えになっていた。
忙しくても、つらくても、「この小さな命を咲かせたい」と思うと、不思議と元気が湧いた。

そして春、ついに紫の花が開いた。
窓辺に香りが漂った瞬間、結衣は思わず涙ぐんだ。
それは、子どものころに嗅いだ香りと同じだったのだ。

結衣が小学生の頃、祖母の家にはいつもヒヤシンスが咲いていた。
縁側にずらりと並ぶ鉢植え。
祖母は花の名前をひとつずつ教えてくれた。
「ヒヤシンスはね、“再生”って意味があるのよ。寒い冬を越えて、また咲くの」
その言葉を、結衣はぼんやりと覚えていた。

祖母が亡くなったのは、高校二年の春だった。
病室に飾られたヒヤシンスの花が、最後まで淡く香っていた。
その香りを胸の奥にしまったまま、結衣は大人になり、東京で働くようになった。
けれど、仕事に追われ、人との関係に疲れ、気づけば笑顔が減っていた。

──そんな時、偶然出会ったあの球根。
あれは祖母が、もう一度「春」を思い出させてくれたのかもしれない。

ヒヤシンスの香りは、記憶を呼び覚ます。
朝、窓を開けるたび、祖母の声が聞こえる気がした。
「結衣、ちゃんと食べてる? 無理しすぎないでね」
花の世話をする指先に、優しいぬくもりが残る。

ある日、職場の後輩がふと聞いた。
「先輩の部屋、なんか春みたいな香りしますね」
結衣は少し笑って答えた。
「ヒヤシンスの香りだよ。頑張る人に寄り添ってくれる香り」

その日から、後輩も花屋に通うようになり、オフィスの窓際にも小さな鉢植えが増えていった。
ヒヤシンスの輪が、少しずつ広がっていく。

春がまた巡り、花が終わるころ、結衣は球根を掘り上げた。
土を払いながら、ふと手が止まる。
「また来年も、咲かせようね」
そうつぶやいた声に、風が優しく答えるようだった。

その夜、枕元に残る微かな香りの中で、結衣は夢を見た。
陽だまりの縁側に座る祖母が、笑いながら言う。
「よく咲かせたね。ヒヤシンスは、あなたの春そのものだよ」

結衣は目を覚まし、静かに微笑んだ。
窓の外では、朝の光が街を包み始めていた。
ヒヤシンスの鉢の中には、まだ小さな緑の芽が顔を出している。

それは、次の春へと続く、命の約束のようだった。

──香りは、記憶を超えて、生きていく人の心に咲く。
結衣の部屋には、今日もヒヤシンスの甘い香りが満ちている。