小倉トーストの朝

食べ物

名古屋の喫茶店「つばめ珈琲」は、開店してもう三十年になる。
古びた木の扉を押して入ると、コーヒーの香ばしい匂いと、バターが焼ける甘い香りがふんわりと鼻をくすぐる。
カウンターの端の席に、毎朝、ひとりの青年が座る。
名前は航平。
二十七歳。
近くの設計事務所に勤めている。

彼の朝は決まってここから始まる。
注文するのはいつも同じ——「小倉トーストとブレンド、お願いします」。
厚切りのトーストに、たっぷりのバターが染みこみ、その上に艶やかな小倉あん。
最初にナイフを入れると、かすかに湯気が立ち上がる。
その瞬間、航平は心の奥がほぐれていくのを感じるのだ。

小倉トーストは、彼にとって単なる朝食ではない。
幼いころ、祖母が毎朝作ってくれた思い出の味だった。

祖母はいつも言っていた。
「朝はね、あんこの甘さで一日がうまくいくんだよ」。
忙しい母に代わって、祖母が面倒を見てくれた。
トーストを焼く音、あんこを温める香り、そして祖母の優しい笑顔。
中学生のころに祖母が亡くなったあとも、その味だけは航平の中に残っていた。

大学進学で名古屋を離れ、東京での暮らしの中でも、彼は休日の朝に小倉トーストを作った。
けれど、どうしても何かが違った。
パンも、あんこも、雰囲気も、あの頃の温もりには届かない。
そんな彼が数年前、転勤で再び名古屋に戻ってきたとき、偶然この「つばめ珈琲」を見つけた。
初めて食べた小倉トーストは、驚くほど懐かしかった。
祖母の味そのものではないけれど、優しい甘さと香りが、心の奥の記憶を静かに呼び覚ます。

「今日も同じでいい?」
店主の坂本が笑いながら聞く。
「はい、小倉トーストで」
航平は少し照れくさそうに答える。

ある日、カウンターの隣に座った女性が、トーストを前にスマホを構えていた。
「写真撮るんですか?」と航平が声をかけると、彼女は顔を上げて笑った。
「はい、名古屋のモーニングを集めてるんです。小倉トーストって、見た目も可愛いですよね」
その人は美咲と名乗った。
東京から転勤してきたばかりだという。

それから数日、彼女は同じ時間に「つばめ珈琲」に来るようになった。
二人で小倉トーストを食べながら、仕事や趣味の話をするようになった。
美咲はあんこが少し苦手だったが、航平にすすめられて食べたとき、驚いたように言った。
「こんなに優しい味だなんて思わなかった」
その言葉を聞いて、航平はなぜだか胸が温かくなった。

春が来て、喫茶店の窓から差し込む光が柔らかくなったころ、美咲は転勤が終わり、東京に戻ることになった。
最後の日、彼女はいつもの席に座り、少ししんみりした顔でトーストを見つめていた。
「これ、東京でも食べたくなるんだろうな」
「じゃあ、また名古屋に来たときはここで一緒に食べましょう」
航平がそう言うと、美咲は少し笑って頷いた。

それからしばらくしても、航平は毎朝「つばめ珈琲」に通い続けた。
トーストの香りに包まれながら、今日も新しい一日が始まる。
バターの溶けたパンの端を口に運び、甘いあんこが舌に広がるたびに、祖母の声と、美咲の笑顔が心の中に浮かぶ。

——小倉トーストは、記憶と今をつなぐ味。
ひとくちごとに、失われた時間と新しい出会いが重なっていく。

カップの底に残るコーヒーを飲み干して、航平はゆっくりと立ち上がる。
扉を開けると、朝の光がまぶしかった。
今日もまた、あんこの甘さが背中をそっと押してくれる。