早苗は、朝の市場が好きだった。
まだ陽が昇りきらない時間に、海の匂いが風に混じって漂ってくる。
波の音を背に、漁師たちの威勢のいい声が飛び交う。
彼女はいつものように籠を片手に、海藻を並べた一角へと歩いた。
「おはよう、早苗ちゃん。今日も来たね」
「おはようございます、佐久間さん。わかめ、ありますか?」
佐久間漁師の手が、ぬらりとした緑の束を持ち上げる。
朝採れの生わかめ。
海の色をそのまま閉じ込めたように、光を受けてきらめいている。
「今朝のは格別だよ。潮が引くのが早くてな、柔らかい葉だけが残ってた」
「いい香り……。今日はこれで味噌汁にしようかな」
早苗は、鼻をくすぐる磯の香りに目を細めた。
幼いころから、この匂いが好きだった。
彼女の実家は、小さな海辺の食堂を営んでいる。
母の得意料理は、わかめの味噌汁。
港で働く人たちが体を温めにやって来ると、必ず「これだよ、これ」と言って喜んでくれた。
早苗がまだ小学生の頃、母と一緒に鍋をかき混ぜながら「いい匂いだね」と笑い合った時間が、今も心の中に残っている。
だが三年前、母が亡くなってから、食堂は一度閉めた。
海の近くに住んでいても、心はどこか遠くにあった。
ある日、古びたまな板の上で、ふと母の包丁跡を見つけた。
そこに刻まれた傷が、まるで声をかけてくるようだった。
——早苗、わかめを煮る香りを、またこの家に戻しておくれ。
その瞬間、早苗の中に何かが灯った。
それから彼女は、毎朝市場に通うようになった。
種類の違うわかめを集め、味や香りの変化を確かめた。
柔らかい若芽、歯ごたえのある茎、深い緑の葉。
それぞれの持ち味を知るたびに、海の表情が少しずつ見えてくるようだった。
ある夜、久しぶりに鍋に火を入れた。
昆布だしを温め、味噌を溶かし、刻んだ生わかめをさっとくぐらせる。
湯気とともに立ちのぼる潮の香りが、部屋いっぱいに広がった。
思わず涙がこぼれた。
「お母さん、できたよ」
次の週、早苗は思い切って食堂を再開した。
看板は昔のまま、「潮の香り亭」。
最初は近所の人がちらほら来るだけだったが、口コミで評判が広がり、港の作業員や観光客が足を運ぶようになった。
人気の一品はもちろん、「わかめの味噌汁」。
だしは昆布と煮干しを合わせ、火を止める直前に生わかめを入れる。
食べる瞬間にちょうど鮮やかな緑に変わるのがこだわりだ。
「ここのわかめ、ほんとにうまいな」
「香りが海そのものだね」
そんな声を聞くたびに、早苗の胸はあたたかくなる。
母の味を受け継ぎながら、自分の手で少しずつ新しい風を吹き込んでいるような気がした。
ある日、常連の佐久間漁師が言った。
「早苗ちゃん、来月の“海祭り”で屋台出してみたらどうだ? お前さんの味噌汁なら、きっと行列できるぞ」
少し戸惑ったが、心の奥でわくわくが広がるのを感じた。
「……やってみます」
祭りの日、波打ち際に並ぶ屋台の中で、早苗の鍋からは湯気が立ち上っていた。
わかめの香りが風に乗って広がると、潮風と混ざってまるで海全体が温かい味噌汁になったようだった。
食べに来た子どもが「おいしい!」と笑う。
年配の漁師が「昔の味だ」と涙をぬぐう。
早苗は、空を見上げてそっと呟いた。
「お母さん、ちゃんと届いたよ」
夕暮れ、潮が引く浜辺に立つと、波打ち際に光る海藻の帯が見えた。
風がふわりと吹いて、どこか懐かしい香りが鼻をくすぐる。
それはまるで、母の手の温もりがまだそこにあるような——やさしい、わかめの匂いだった。

 
  
  
  
  