朝、ゆっくりと光が差し込む台所で、ゆう子は鍋の中を静かにかき混ぜていた。
玉ねぎの甘み、にんじんのやさしい香り、セロリの青さ。
湯気の向こうで、まるで色と香りが語り合っているように感じる。
彼女は昔から、野菜スープが好きだった。
子どものころ、風邪をひくたびに母が作ってくれたのが、野菜たっぷりのスープだった。
あれを飲むと、体の芯から温まり、どんなに苦しかった日も「大丈夫」と思えた。
今では母ももういない。
けれど、ゆう子は毎朝スープを作る。
仕事に行く前のわずかな時間、野菜を刻み、火にかけ、やわらかくなるのを待つ。
その過程が、心を落ち着かせる儀式のようになっていた。
出勤前の夫と娘が眠い目をこすりながら席につく。
「今日のスープ、何?」
娘の美咲が尋ねる。
「にんじんとキャベツと、少しだけトマト。昨日の残りのじゃがいもも入れたわ」
美咲はスプーンを手に取り、一口すすると、ほっとしたように息をついた。
「やっぱり、朝はこれがいいね」
その一言が、ゆう子の一日の力になる。
昔、母がよく言っていた。
「料理ってね、味よりも気持ちなのよ。食べる人が元気になってくれたら、それがいちばんのごちそう」
その言葉が、今ではゆう子の台所の中心にある。
冬のある日、ゆう子はふと思い立って、会社の同僚たちにもスープを作って持っていった。
いつもコンビニ弁当で済ませている人たちに、せめて温かいものをと。
「これ、朝に仕込んできたの。よかったらどうぞ」
紙コップに注がれたスープの湯気が、オフィスの冷たい空気をやわらげた。
同僚の佐藤が驚いたように言った。
「うまいな、これ。なんか懐かしい味がする」
別の同僚も頷く。「母親の味、って感じだね」
ゆう子は照れながら笑った。
みんなの表情が少しほころぶのを見て、心の奥が温かくなる。
その日から、週に一度「スープの日」が生まれた。
野菜をみんなで持ち寄り、昼休みに鍋を温める。
オフィスの小さな給湯室に、野菜の香りが漂う。
「今日はブロッコリー入れたぞ」
「うちの畑の大根も持ってきた」
そんなやり取りが、仕事の張り詰めた空気をやわらかくしていった。
春になり、美咲が中学校に進学した朝。
いつものようにスープを作りながら、ゆう子は少し胸が締めつけられた。
新しい制服に袖を通した娘が、少し背伸びした表情で言う。
「ママ、朝ごはんありがとう。行ってくるね」
玄関で靴を履くその背中に、「いってらっしゃい」と声をかけながら、ゆう子は思った。
いつかこの子も、自分の暮らしの中で誰かにスープを作る日が来るのかもしれない。
そうなったらいいな、と。
昼過ぎ、会社で鍋の中をのぞき込むと、今日はにんじんの赤がひときわ鮮やかだった。
「なんか、これ見ると元気出るな」
佐藤が笑いながら言う。
ゆう子もスプーンをすくい、口に運んだ。
やさしい塩気と、野菜の甘みが広がる。
まるで、母の手のぬくもりが戻ってきたような味。
スープは不思議だ。
特別な食材がなくても、誰かの心を満たすことができる。
ゆう子は今日も思う。
――この温かさを、誰かにつないでいけたらいい。
窓の外では、春の風が街路樹の若葉を揺らしている。
鍋の中では、また新しいスープが静かに湯気を立てていた。

 
  
  
  
  
