秋風に香るラ・フランス

食べ物

山形の小さな果樹園で育った洋梨、ラ・フランス。
その果実の甘い香りに包まれながら、佐和子は今日もジュースの仕込みをしていた。
秋の午後、果樹園には金色の光が差し込み、熟れたラ・フランスが枝の間でふっくらと揺れている。

「今年もいい香りだね」
彼女が声をかけると、隣で皮をむいていた父が、しわの深い笑顔を見せた。
「うん、今年は寒暖の差がちょうど良かった。甘みがぎゅっと詰まってるよ」

佐和子は果汁を搾る機械の音を聞きながら、幼い頃の記憶を思い出していた。
学校から帰ると、父と母がいつも果樹園で働いていた。
彼女は母の手伝いをしながら、収穫したラ・フランスの香りに夢中になった。
熟した果実を一口かじると、上品な甘さとほのかな酸味が口いっぱいに広がり、幸せな気持ちになった。

だが三年前、母が病に倒れ、果樹園は一時閉じることになった。
父は「もう無理かもしれない」と弱音を吐いたが、母の最後の言葉が佐和子を動かした。
「この香りを、みんなに届けてね」

それ以来、佐和子は母のレシピ帳を頼りに、ラ・フランスジュースの製造を始めた。
砂糖も香料も使わず、果実そのものの味を生かす方法を試行錯誤する日々。
搾るタイミングや温度の調整を少し変えるだけで、風味がまるで違ってしまう。
何度も失敗を重ねたが、ある日ふと、母が教えてくれた「熟れすぎる少し前が一番いい」という言葉を思い出した。

試しにそのタイミングで搾ったジュースを口に含むと、やわらかい甘さと芳醇な香りが広がり、まるで秋の果樹園をそのまま飲み込んだような味わいだった。
佐和子は涙ぐみながら、父に差し出した。
「お母さんの味、だね」
父は一口飲んで、しばらく黙っていた。
そして、静かにうなずいた。

それから二人は力を合わせて、再び果樹園を動かし始めた。
地元の道の駅でジュースを販売すると、口コミで評判が広がり、遠方からも注文が届くようになった。
ラベルには母が描いたラ・フランスのスケッチと、「秋風に香る果実」という文字が印刷されている。

十一月の終わり、冷たい風が山の端から吹き下ろす頃。
佐和子は搾りたてのジュースを瓶に詰めながら、ふと窓の外を見る。
果樹園の枝にはもう実はなく、静かに冬を待っているようだった。
だが、あの香りはまだ作業場の中に漂っている。

「お母さん、今年もできたよ」
心の中でそうつぶやき、佐和子は瓶のふたをそっと閉めた。

数日後、常連の老夫婦が店にやってきた。
「今年のジュースも届いたよ。あの優しい香り、待ってたんだ」
そう言って笑う二人を見て、佐和子は胸の奥が温かくなった。
母が残した香りと味が、こうして誰かの日常をやさしく包んでいる。
そのことが、何よりうれしかった。

ラ・フランスのジュースは、ただの飲み物ではない。
秋の陽射し、家族の思い出、そして母のぬくもりが溶け込んだ一滴一滴だ。

瓶を一本手に取り、佐和子は果樹園へと歩いていった。
葉を落とした木々の間を風が抜け、かすかに甘い香りを運ぶ。
その香りの中で、彼女は静かに目を閉じた。

――また来年も、この香りを届けよう。

ラ・フランスの果樹園は、今日もやさしい光に包まれていた。