小さな町のはずれに、一軒の古い家があった。
庭の柿の木の下で、柴犬の「こたろう」はいつも丸くなって眠っている。
毛並みは陽だまりのようにあたたかく、鼻先は少し白くなり始めていた。
もう十歳を越える老犬だった。
こたろうの飼い主は、小学生の少女・美咲。
登校するときも、帰ってくるときも、こたろうは門の前で尻尾を振って迎えてくれた。
ある冬の日の放課後、空は早くも橙色に染まり、風は冷たく頬を刺した。
美咲がランドセルを揺らして帰る途中、道の先にこたろうの姿が見えた。
首輪をつけていない。
「こたろう! どうしたの!?」
こたろうは小さく鳴いて、美咲の方へ駆けてきた。
けれど、いつもの元気はなく、足取りはどこかふらふらしていた。
美咲は慌てて抱きしめようとしたが、こたろうはそのまま町外れの坂道を上っていく。
まるで何かに導かれるように。美咲はランドセルを放り出し、後を追った。
坂の上には、見晴らしのいい丘がある。
こたろうと美咲がいつも散歩の途中で休む、お気に入りの場所だった。
そこからは町の屋根と夕陽が見える。
こたろうはゆっくりと丘の上まで登りきると、美咲の方を振り返った。
息が荒く、体が小刻みに震えていた。
「ねえ、こたろう……帰ろうよ。寒いよ」
けれど、こたろうはその場に座り込み、顔を夕陽の方に向けた。
風に揺れる毛並みが金色に光って見えた。
その瞬間、美咲の胸に幼いころの記憶がよみがえった。
泣き虫だった自分のそばに、いつもこたろうがいた。
転んだときも、怒られたときも、無言で寄り添ってくれた。
「こたろう、ありがとね……」
美咲は小さな声でつぶやき、その背中にそっと手を置いた。
こたろうは一度だけ尾をゆっくり振り、美咲の手を鼻先で押した。
まるで「もう大丈夫」と言っているように。
空が紫に変わるころ、こたろうは目を閉じた。
風がやんで、世界が静かになったように感じた。
***
それから数日後。
庭の柿の木の下に、こたろうのための小さな石碑が立てられた。
美咲は毎朝そこに花を置き、「行ってきます」と声をかける。
春が訪れ、庭にはタンポポが咲いた。
風が吹くたび、どこかでこたろうの鈴の音が聞こえる気がした。
ある放課後、美咲は丘の上へ登った。
あの日と同じ夕陽が町を照らしている。
そっと目を閉じると、隣にこたろうが座っているような気がした。
「ねえ、こたろう。私、もうすぐ中学生になるんだよ」
そう話しかけると、風が優しく頬をなでた。
美咲は笑った。
涙がこぼれそうになったけれど、それはもう悲しみではなかった。
夕暮れの中、彼女はまっすぐ家へと歩き出した。
門の前には、空っぽの首輪が静かに光っていた。

