夜の静けさが好きだった。
外では秋の虫が鳴いている。
窓を少し開けて、ベッドサイドの小さな灯りをつける。
木製の棚の上に並ぶガラス瓶たち——ラベンダー、ローズ、ユーカリ。香りの違いを感じながら、今日も奈央は小さな儀式を始めた。
手の中に、ひんやりとした翡翠色のかっさ板。
それは中国旅行で買ったもので、店の老婦人が「月のかけら」と呼んでいた。
光を当てると、まるで内側に淡い月が沈んでいるように見えた。
鏡の前に座り、頬を軽く滑らせる。
こめかみから首筋へ、そして鎖骨のくぼみへ。
皮膚の上を通るたび、少しずつ身体がほぐれていく。
昼間、オフィスで溜め込んだ疲れが、音もなく溶けていくようだった。
奈央はデザイン事務所で働いていた。
毎日、モニターの光とにらめっこ。
締め切り前には、肩が鉄のように固まり、頭痛で夜眠れないことも多い。
そんなある日、同僚の美咲が彼女に小さな袋を差し出した。
「これ、かっさって言うの。血流が良くなるんだって」
最初は半信半疑だったが、家で試してみると不思議なほど肩が軽くなった。
それから毎晩の習慣になった。
マッサージというより、心を整える時間。
彼女にとって、それは一日の終わりを「自分に戻す」ための小さな儀式だった。
ある夜、会社から帰ると、美咲からメッセージが届いていた。
《ねぇ、週末に“かっさ教室”行かない? プロの人が教えてくれるらしい》
奈央は迷った。自分の静かな時間を誰かと共有することに、少し抵抗があった。
でも、「自分の好き」を広げてみてもいいかもしれないと思い、頷いた。
週末、古いビルの一室に集まったのは十人ほど。
講師の女性は柔らかい声で話した。
「かっさは、力じゃなく“流れ”です。身体の中に溜まったものを、月のように静かに動かしてあげるんです」
その言葉を聞いた瞬間、奈央の胸の奥で何かがほどけた。
いつも「頑張らなきゃ」と自分を締めつけていた。
でも、身体も心も、無理に押し出さなくてもいいのかもしれない。
レッスンの最後に、講師が一人ひとりに声をかけた。
「あなたの指の動き、優しいですね。人を癒す手です」
そう言われたとき、奈央は少し泣きそうになった。
それから、かっさは彼女の趣味を越えて、小さな夢になった。
休みの日には友人たちにマッサージをしてあげるようになり、気づけば「奈央のかっさサロン」が近所で評判になっていた。
今夜も、店を閉めたあと、自分の顔をかっさで撫でる。
鏡の中の自分は、どこか柔らかく笑っている。
翡翠の板が月明かりを受けて、ほのかに光る。
あの日、老婦人が言った言葉を思い出す。
「月のかけらで自分を撫でれば、心も静かに満ちていくよ」
奈央はその光を指でなぞりながら、そっと目を閉じた。
今日もまた、自分を癒す時間が始まる。
外では虫の声が続き、夜は深く、やさしく流れていく。


