帰り道の楓

面白い

村のはずれ、小さな川のそばに一本の楓の木が立っていた。
春は淡い緑、夏は濃い影を落とし、秋には火のように赤く染まる。
冬は裸になって雪を受け止め、また春を待つ。
百年近く、変わらぬ場所で風に揺れ、人々の暮らしを見つめてきた。

昔、この楓の木の下で、ひとりの少年が泣いていた。
名を蓮といった。
友だちとけんかをして、家にも帰れず、川辺にしゃがみこんでいたのだ。
木の影がそっと彼を包み、風が枝葉を揺らして小さな音を立てた。
それはまるで「大丈夫」と言うように聞こえた。
蓮は涙をぬぐい、「ごめんなさいって言ってくる」と立ち上がった。
その日から、彼はことあるごとにこの木の下へ来るようになった。

やがて蓮は大人になり、村を出て街で働くようになった。
楓の木のことは心の奥にしまいこまれたが、秋になると決まって懐かしい赤色が浮かんだ。
疲れた夜、窓の外の街路樹の葉が赤く色づくと、あの川辺の風の音が耳の奥に蘇った。

一方、村では季節が何度も巡っていた。
楓の木のそばには、蓮の幼なじみの美佐が家を建て、子どもたちが遊ぶ声が響いた。
美佐はときどき木の幹に触れ、「あなたも蓮を覚えてるでしょう」とつぶやいた。
木は答えない。
ただ枝を揺らして葉をこすり合わせる音を立てた。

ある秋の夕暮れ、蓮は十数年ぶりに村へ帰ってきた。
都会の仕事を辞め、心の整理をつけたくなったのだ。
川辺へ行くと、楓の木は昔よりも太く、堂々と立っていた。
夕日を浴びて、葉が金と朱の間で揺れている。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

「ただいま」
蓮はそっとつぶやいた。
木は風に鳴り、まるで返事をするように葉を散らした。
ひとひらの葉が彼の肩に落ちた。
それを手に取り、懐かしい記憶が押し寄せる。
泣いていた少年の頃、美佐の笑い声、流れる川の音——すべてがこの木の下にあった。

その日から蓮は毎朝、楓の木のそばで過ごすようになった。
木の根元を掃き、川を眺め、本を読んだり、ただ風を聞いたりした。
村の人たちは「蓮さんが帰ってきた」と噂し、美佐も笑顔で声をかけに来た。
二人は子どものように木の下で話し、時の流れを確かめるように笑い合った。

秋が深まるにつれ、楓の木の葉は燃えるような紅をまとった。
その美しさに、蓮は思わず息をのんだ。
「昔よりずっときれいだ」とつぶやくと、美佐が言った。
「きっと、あなたが帰ってきたからよ」

冬、雪が降り始めるころ、蓮は村に残る決心をした。
街での忙しさよりも、この静けさの中に自分の居場所を見つけたのだ。
古い家を直し、川辺の木を見守るような暮らしを始めた。

春、芽吹く緑の中で、蓮は子どもたちに木の話をして聞かせた。
「この木はね、昔ぼくを励ましてくれたんだ」と。
子どもたちは目を輝かせ、枝に触れた。
木は穏やかに風に揺れ、まるで笑っているようだった。

季節はまた巡る。
楓の木はこれからも、誰かの悲しみを見守り、誰かの帰りを待ち続けるだろう。
風が吹けば、葉がささやく。
「おかえり」と。
川のせせらぎとともに、その声はいつまでも、村の空気に溶けていた。