山あいの小さな村のはずれに、一つの古い水車小屋があった。
木でできた羽根はすり減り、苔むした輪が静かに回るたび、きしむ音が谷にこだました。
村の人々は「もうすぐ止まるだろう」と言いながらも、その音にどこか安心していた。
水車小屋を守るのは、七十を過ぎた職人・良平だった。
若いころから粉をひいて生きてきた男で、今でも毎朝、川の流れを見ては水量を調整し、軸に油をさしていた。
粉をひく人はもう少ない。
けれど彼にとって、水車の音は命のリズムのようなものだった。
春、村の小学校から一人の少女がやって来た。
名前は菜月。
夏休みの自由研究で「水車の仕組みを調べたい」という。
良平は驚いたが、笑って迎え入れた。
「水車なんて、もう誰も興味ないと思ってたよ」
菜月は目を輝かせた。
「だって、水だけで動くなんて、すごいじゃないですか!」
その日から、菜月は毎日のように小屋を訪れた。
川から水を引く溝の仕組み、軸の回転が石臼に伝わる構造、粉の細かさの違い――良平はひとつひとつ丁寧に教えた。
彼女はノートにぎっしり書き込み、時には絵を描き、時には質問攻めにした。
ある日、菜月がふと聞いた。
「どうして、この水車をずっと動かしてるんですか?」
良平は少し考えてから、静かに答えた。
「昔な、この水車で村のみんなの米をひいたんじゃ。冬になると川が凍って止まる。けど、春にまた流れ出すと、この音が戻ってくる。それが村に“春が来た”って知らせる合図みたいでな。誰も頼まんでも、わしは回してるんじゃ。」
菜月はその言葉を胸に刻んだ。
けれど夏の終わり、激しい豪雨が村を襲った。
川があふれ、山からの濁流が水車小屋を直撃した。
翌朝、村人たちが見に行くと、羽根は折れ、軸も曲がっていた。
良平は無言で壊れた水車の前に立ち尽くした。
菜月も駆けつけたが、彼はただ小さく首を振った。
「もう……無理かもしれん。」
それでも菜月は諦めなかった。
「直しましょう。私、手伝います!」
彼女の声に、良平の胸が熱くなった。
それから数週間、二人は修理に取りかかった。
折れた羽根を削り直し、古い部品を磨き、村の大工も加わった。
泥まみれになりながら、菜月は笑っていた。
「水の力って、すごいですね。でも、人の力も負けてません!」
その言葉に、良平は深くうなずいた。
秋のはじめ、再び川に水を引き入れる日が来た。
最初は軋むような音がして、羽根はゆっくりと動き出した。
やがて、一定のリズムを刻み始める。
ゴトン、ゴトン――懐かしい音が谷に響く。
菜月が歓声を上げた。
「動いた! 動いたよ!」
良平は笑いながら、目尻をぬぐった。
「お前さんのおかげじゃ。」
水車は再び村に春を告げるように回り続けた。
菜月の研究発表は「水と人の力」という題で、学校で大きな拍手をもらった。
彼女はその後もたびたび小屋を訪れ、良平と一緒に新しい仕組みを考えた。
やがて冬が訪れ、川が再び凍る季節。
良平は火鉢の前で静かに言った。
「この水車も、次の世代に渡さにゃならんのう。」
菜月は頷いた。
「私が、守ります。」
外では雪が舞い、凍った川の上に薄日が差していた。
その奥で、止まった水車の羽根が、春を待つように静かに光っていた。

