信号の向こうの相棒

動物

朝の光が差し込む警察犬訓練センターの広場に、風が吹き抜けた。
若い警察官・田島は、ハーネスを握りしめながら深呼吸する。
目の前には、一頭のジャーマン・シェパード──名は「レン」。
鋭い目つきだが、尻尾の動きはどこか柔らかい。

「レン、今日は最後の試験だ。やれるな?」
低く声をかけると、レンは一度だけ短く吠え、前足を踏み鳴らした。

田島が警察犬の担当を志願したのは二年前。
先輩刑事が殉職した事件で、現場にいたのが一頭の警察犬だった。
彼は負傷しながらも主人の遺体のそばを離れなかったという。
その姿に田島は、胸の奥を掴まれたような衝撃を受けた。
──人間と犬。種は違えど、任務を共にする仲間になれる。

それからの訓練は過酷だった。
レンは優秀だったが、頑固でもあった。
指示を無視して勝手に動くことも多く、最初の数か月はまったく息が合わなかった。
ある日、田島が苛立ちから声を荒げたとき、レンは低く唸り、背を向けた。
「お前に俺の何がわかる」──そんな声が聞こえた気がした。
田島は静かにリードを置き、しばらくレンの隣に座った。
言葉はいらなかった。
ただ、彼の頭をそっと撫でると、レンの耳がぴくりと動いた。
その瞬間から、少しずつ二人の呼吸は合っていった。

そして今日、最後の実地試験。
模擬市街地に設けられた捜索エリア。
指示は「行方不明者を発見せよ」。
レンは地面の匂いを確かめながら進み、交差点を左へ。
途中で立ち止まり、風の匂いを嗅ぐ。
田島も息を殺す。
一瞬の沈黙の後、レンが一気に駆け出した。
廃ビルの影へ──そして、瓦礫の間に隠された人形に前足を伸ばす。
「発見!」
審査員の笛が鳴る。
時間、わずか三分。完璧だった。

「やったな、レン!」
田島が笑いながら抱きしめると、レンは嬉しそうに舌を出し、彼の頬を舐めた。
訓練官が近づき、「合格だ。正式な警察犬として認定する」と告げた瞬間、拍手が起きた。
だが、レンの目はすでに遠くを見ていた。
信号の向こう、パトカーの列が見える方向へ。

──数か月後。
未明の通報。
小さな山村で幼児の行方不明。
雪が降り始めた山道に、田島とレンが出動した。
冷たい風の中、レンは匂いを追い、急斜面を登る。
田島は足を取られながらも必死でついていった。
「頼む、レン。見つけてくれ…」
その声に応えるように、レンが吠えた。
倒木の陰で、幼い子が震えていた。

救出が終わると、レンはその場に座り込み、静かに田島の顔を見上げた。
その目は、「もう大丈夫だ」と語っていた。

帰署後、田島はレンの首輪を外し、優しく撫でた。
「お前がいなかったら、あの子は…ありがとう、レン」
レンは静かに目を細め、尻尾を振った。

夜、帰り道の信号で立ち止まる。
青い光の向こうに、レンの姿が映る。
「なあ、レン。お前といると、世界が少し優しく見えるよ」
風が頬を撫で、遠くでサイレンが鳴った。

田島は空を見上げ、そっと呟いた。
「これからも、よろしくな──相棒」

信号が青に変わり、二つの影が並んで歩き出した。
ひとりと一頭、同じ速さで、同じ方向へ。
その足音は、静かな夜の街に、確かな絆の証として響いていた。