――冬の朝、陽の光がゆっくりと部屋に差し込んでくる。
ガラスのコップの中で、みかんジュースがきらきらと輝いていた。
陽菜はその色が好きだった。
太陽をぎゅっと閉じ込めたような、あたたかいオレンジ色。
小さなころから、冬になると祖母が手しぼりで作ってくれるみかんジュースを、朝の光の中で飲むのが何よりの幸せだった。
祖母の家は海のそばの小さな町にあった。
裏庭には古いみかんの木が並び、冬になると枝がたわむほどの実をつけた。
「冷たい手でしぼると、甘くなるんだよ」
祖母は笑いながら、分厚い皮をむき、ゆっくりと絞り器を回した。
そのしずくの音は、波の音と一緒に陽菜の記憶に刻まれている。
高校を卒業して都会に出てからも、陽菜はみかんジュースを冷蔵庫に欠かさなかった。
忙しい朝でも、グラスに注ぐだけで心が少し落ち着いた。
けれど、いつの間にかその味が変わってしまったような気がしていた。
スーパーで買う紙パックのジュースは甘いけれど、どこか平らで、あの冬の庭の香りがしなかった。
三年ぶりに帰省した冬。
祖母の家は静かだった。
庭のみかんの木は、剪定もされず枝が伸び放題になっている。
祖母が倒れてから、誰も世話をする人がいなかった。
「もう、飲めないのかな……」
小さくつぶやいた陽菜の耳に、かすかに風の音が響いた。
みかんの葉が擦れあう音。
あの日と同じ音。
納屋を開けると、埃をかぶった手しぼり器があった。
祖母が使っていたもの。
陽菜はためらいながらも、一つのみかんを拾い上げた。
皮はしわしわで、少し硬い。
でも指で押すと、しっかりとした重みを感じた。
「甘いといいな」
そう言って、祖母のまねをするようにゆっくりと絞った。
果汁が器に落ちる音が、小さな音楽のように響いた。
グラスに注ぐと、濃いオレンジ色の光が冬の部屋を照らした。
ひと口飲むと、懐かしい酸味とやさしい甘みが広がった。
涙がぽろりとこぼれた。
――変わっていなかった。味も、香りも、記憶も。
その年の春、陽菜は仕事を辞め、祖母の家に戻った。
みかんの木を剪定し、畑を整え、手しぼりのジュースを瓶に詰める日々が始まった。
「陽だまりジュース」
そう名づけた瓶を町のマルシェに並べると、地元の人たちが次々に手に取ってくれた。
「なんだか懐かしい味だね」
「冬の朝の匂いがする」
そんな言葉を聞くたびに、陽菜の胸が温かくなった。
ある日、店先に小さな女の子が立っていた。
「このジュース、太陽の味がする!」
その笑顔に、陽菜は祖母の笑顔を重ねた。
みかんの木の下、春の風が吹き抜ける。
陽菜は青空を見上げて、そっとつぶやいた。
「おばあちゃん、ありがとう。ちゃんと、続けてるよ。」
グラスの中では、今日もしぼりたてのみかんジュースが光をはね返している。
それは、祖母から陽菜へ、そしてこれから先へと受け継がれていく、あたたかな陽だまりの記憶だった。

