駅前のベンチに腰かけて、缶コーヒーのプルタブをそっと外す。
カチリと鳴った音が、秋の風に小さく溶けていく。
その銀色の輪っかをポケットにしまうと、通りすがりの高校生が不思議そうにこちらを見た。
だがもう慣れた。誰かに変な人だと思われるのも、最初のうちだけ気になったけれど、今では気にも留めない。
僕はプルタブを集めている。もう十年以上になる。
家の一角には、透明の瓶がいくつも並び、ぎっしりと詰まったプルタブが陽の光を受けて輝いている。
集めはじめたきっかけは、母の入院だった。
まだ学生だった頃、母は長い闘病生活の末に、車椅子が必要になった。
ある日、病院の掲示板に「プルタブ80万個で車椅子一台を寄贈できます」という張り紙を見つけた。
僕はそれを見て、なんの迷いもなく集めようと決めたのだ。
最初は簡単にできると思っていた。
缶ジュースを買えば一個、友人に頼めば十個。
だが、現実は甘くなかった。
八十万という数字は果てしなく遠く、たとえ一年間頑張っても数千個程度にしかならなかった。
それでも僕はやめなかった。
母が病院で少しずつ笑顔を取り戻すたび、銀色の輪っかが輝いて見えた。
母が亡くなったあとも、集める習慣はやめられなかった。
理由はもう明確ではなかった。
けれど、プルタブを拾っていると、母がそばにいるような気がした。
駅前、河川敷、コンビニのごみ箱の近く。
いつも無意識のうちに、僕の視線は地面を探している。
「そんなに集めてどうするの?」と誰かに聞かれるたび、僕は「約束だから」と答える。
ある日、職場の後輩の美咲が言った。
「先輩、そのプルタブ、私も集めていいですか?」
驚いた僕に、美咲は続けた。
「私の母も、昔、車椅子をもらったことがあるんです。たぶん、誰かがこうして集めてくれたんだと思って」
それを聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
あの日、掲示板の前で立ち尽くしていた自分が、今につながっている気がした。
それからというもの、昼休みになると二人で缶コーヒーを片手に歩いた。
僕はブラック、美咲は微糖。
カチリと鳴る音が二つ重なり、まるで挨拶のように響いた。
「これ、何個目ですか?」
「たぶん、七万個くらいかな」
「もうすぐじゃないですか!」
笑う彼女の声が、母の笑顔と重なる。
数か月後、ついに目標の八十万個を超えた。
業者に渡す日、二人で段ボールを抱えてトラックの前に立った。
プルタブは金属の塊になり、重量感のある袋に詰められていた。
光が当たると、まるで無数の星が瞬いているようだった。
「これで、誰かがまた動けるようになりますね」
美咲の言葉に、僕はうなずいた。
「そうだな。母も、きっと喜んでる」
家に戻ると、空っぽになった瓶がいくつも並んでいた。
けれど、不思議と寂しさはなかった。
窓から差し込む夕陽が、一本の瓶の底を照らしている。
そこには、ひとつだけ取り残されたプルタブがあった。
それを指先でつまみ、光にかざす。
銀色の輪が、まるで小さな約束の形をしているように見えた。
次の日、僕はまた缶コーヒーを買った。
カチリ、と音が鳴る。
ポケットにしまったその小さな輪は、もう重さを持たない。
ただ、誰かの笑顔へとつながる未来のために。
——プルタブを集めることは、たぶん、希望を拾うことなんだと思う。

