ひとくちのやさしさ

食べ物

朝六時。
古い木造アパートの一階にあるキッチンで、由梨はトマトジュースの缶を開けた。
ぷしゅ、と小さな音がして、赤い香りがふわりと広がる。ガラスのコップに注ぎながら、彼女は小さく息を吐いた。
「今日も、いい色」

大学を出て三年。広告会社の事務として働く由梨の朝は、どんなに忙しくても必ずトマトジュースで始まる。
甘すぎず、酸っぱすぎず、ちょうどいい濃さのその味が、眠ったままの心と体をゆっくりと目覚めさせてくれるのだ。

きっかけは、亡くなった祖母だった。
小学生の頃、夏休みに遊びに行くたび、祖母は冷蔵庫から小さな瓶を出してくれた。
「これを飲むと元気になるよ」と言いながら。
祖母の畑で育てた完熟トマトを搾った手作りのジュースは、少し青臭くて、でも優しい味がした。
祖母が亡くなったとき、由梨はまだ高校生だった。
葬儀の後、誰もいなくなった台所の冷蔵庫を開けると、小さな瓶がひとつだけ残っていた。
ラベルには祖母の文字で「ゆりちゃん用」と書かれていた。

あれ以来、トマトジュースを飲むたびに、由梨は祖母の手の温かさを思い出す。

***

会社の昼休み。
コンビニのイートインスペースで、由梨は同僚の麻美と並んで座っていた。
「またトマトジュース? よく飽きないね」
「うん、好きだから。これ飲むと落ち着くの」
「へぇ……私はコーヒーのほうがいいな。眠気も飛ぶし」
由梨は笑って、ストローを口にくわえた。
冷たい酸味が喉を通り、心が少し軽くなる。

そんなとき、ふと視線の先に見覚えのある文字が映った。
新しくオープンしたカフェのポスターに、「手作りトマトジュースあります」と書かれていたのだ。

その日の帰り道、由梨は吸い寄せられるようにそのカフェに入った。
店内は木の香りがして、窓際の席に座ると夕焼けがちょうど見える。
「トマトジュースをください」
店主らしき青年が微笑んで、「うちは畑から仕入れて手搾りしてるんです」と言った。

一口飲んだ瞬間、由梨の胸に熱いものがこみ上げた。
懐かしい――祖母の味だ。
ほんの少し青臭く、でも優しくて、甘みが後からじんわり広がる。
思わずコップを両手で包み込み、涙がこぼれそうになる。

「気に入りました?」と青年が声をかけてきた。
「はい……すごく懐かしい味で」
「うちの畑、祖母が始めたんです。僕が引き継いで」
「おばあさんが、ですか……」

由梨は微笑んだ。
祖母の畑と、どこかでつながっているような気がした。

それから彼女は、週に一度そのカフェに通うようになった。
青年――湊はいつも同じ笑顔で迎えてくれ、季節ごとにトマトの品種を変えていた。
甘みの強い「桃太郎」、酸味のある「サンマルツァーノ」。
由梨はそれぞれの味に、祖母との記憶を少しずつ重ねていった。

ある日、湊が小さな瓶を手渡した。
「試作品なんです。昔ながらの製法で作ってみました」
ラベルには、丁寧な字で「赤い朝」と書かれていた。

家に帰って、その瓶を冷蔵庫から取り出し、コップに注ぐ。
色も香りも、祖母の作ったジュースにそっくりだった。

由梨は静かに飲み干して、空の瓶を窓辺に置いた。
外では朝焼けが広がり始めている。
祖母の面影、そして新しい誰かとの出会いが、同じ赤の中でつながっていく気がした。

由梨はスマホを取り、湊にメッセージを送った。
――とても美味しかった。また飲みに行きます。

送信ボタンを押したあと、彼女はもう一度トマトジュースを注ぎなおした。
冷たい赤が、今度は少し温かく見えた。

赤い朝は、今日も静かに始まっていく。