エメラルドの湖

面白い

山あいの小さな村の奥に、エメラルド色に輝く湖があった。
名を「翠湖(すいこ)」という。
朝日を受ければ翡翠のように、夕暮れには金を溶かしたように輝くその湖は、村人たちにとって特別な存在だった。

湖のほとりには、一軒の小さな茶屋がある。
主人の志乃は五十を過ぎた女性で、亡き夫と共に四十年近くこの湖を見守ってきた。
茶屋の窓からは、風にそよぐ水面が一望できる。
志乃はその景色を眺めながら、静かに湯を沸かし、訪れる人々に温かな茶を出すのが日課だった。

ある年の春、村に都会から若い画家がやってきた。
名は透(とおる)。
彼は噂に聞いた「翠湖の色を描きたい」と言って、湖のそばに小さなキャンバスを立てた。
毎朝、湖のほとりに座り、黙々と筆を動かす透の姿を、志乃は茶屋の窓からよく眺めていた。

「そんなに毎日描いて、飽きないのかい」
ある昼下がり、志乃が茶を差し入れると、透は少し照れたように笑った。
「色が変わるんです。朝と昼と夕方で、まるで別の湖みたいに」
「そうさ。この湖は、生きてるんだよ」

志乃は静かにそう言った。
昔からこの湖には、不思議な言い伝えがある。
――湖には“心を映す”力があるという。
純粋な心で見れば、湖は澄んだエメラルド色に輝く。
だが、欲や悲しみを抱えた者が見ると、色が濁って見えるのだと。

その話を聞いた透は、少し目を伏せた。
「じゃあ、僕の絵に描く湖の色は、僕の心そのものかもしれませんね」
志乃は微笑み、茶を一口すする音が風に混じった。

夏が来る頃、透の絵は数十枚にもなっていた。
しかしどの絵も、志乃の目にはどこか哀しげに見えた。
「どうしてだろう。色はきれいなのに、どこか沈んでる」
そう呟くと、透は小さく息を吐いた。
「僕には、忘れられない人がいるんです。病気で亡くなって……絵を描く気力もなくなってた。でも、この湖を見たとき、不思議とまた筆を取りたくなったんです」

志乃は黙って頷いた。
「きっと、その人がこの湖に導いたんだよ」

やがて、秋の風が吹き始めた頃。
透は最後の一枚を描き終えると、志乃に見せに来た。
そこには、湖の色を包み込むようにして、柔らかな光が差していた。
空と水が溶け合い、見る者の心を静かに揺らす絵だった。

「これが、僕の見た翠湖の色です」
透の目は、もう悲しみだけではなかった。
志乃はしばらく言葉を失い、それから穏やかに微笑んだ。
「いい色だね。やっと本当の湖が描けたようだ」

透はその絵を村の小さな展覧会に出し、「エメラルドの心」と題した。
絵を見た村人たちはみな、湖の前に立ったときと同じ静かな感動に包まれた。

展覧会の翌朝、透は村を離れた。
志乃は湖のほとりで見送った。
霧の中、透が手を振る。
湖の水面は淡い光を返し、まるで彼を祝福するように輝いていた。

その日から、志乃は茶屋の壁にその絵を飾った。
季節が移り、透の姿はもうここにはない。
それでも、茶を淹れるたびに、志乃はあの色を思い出す。
――人の心が映る湖。
志乃は窓の外を見やった。
今日の湖は、限りなく澄んだエメラルド色に輝いている。

「きっと、あの子の心がまだここにあるんだね」

湯気の向こう、静かな風が湖面をなでた。
翠湖は今日も、誰かの想いを映しながら、ひっそりと息づいていた。