――北海道の冬は、長く、静かだ。
森の奥、白い息を吐きながら、一匹のキタキツネが歩いていた。
名はユキ。
まだ若い雌のキツネで、胸の毛が少しだけ金色に輝くのが自慢だった。
雪に覆われた地面を踏みしめるたび、きゅっ、きゅっ、と乾いた音が響く。
ユキは飢えていた。
森には餌が少なく、風は凍てつく。
人里に近づけば食べ物はあるかもしれないが、危険もある。
母はいつも言っていた。
「人間の匂いがするところには近づいちゃいけないよ」と。
だが、母はもういない。
去年の春、山崩れで姿を消したきりだった。
ユキは腹を鳴らしながら雪原を越え、やがて一本の道に出た。
車の跡がまだ新しい。
鼻先で匂いをたどると、甘いパンの香りがした。
思わず足がそちらへ向かう。
その先にあったのは、小さなバス停。
木製のベンチと、風よけのガラス。
そこに、人間の子どもがひとり、座っていた。
赤いマフラーを巻いた少年。
手にはビニール袋があり、中にはまだ湯気の立つパンが入っていた。
ユキは、息をひそめた。
少年がこちらを見る。
目が合った瞬間、ユキの背筋がこわばる。
逃げようとしたが、少年は急に声を上げなかった。
ただ、そっと袋を開け、雪の上にパンの端を置いた。
「おなか、すいてるんでしょ」
その声は、柔らかかった。
ユキは一歩、二歩と近づき、匂いを確かめる。
小麦の香りと、人の温もり。
ほんの一口だけかじり、すぐにまた後ずさる。
少年は微笑み、ベンチの上で空を見上げた。
「お母さんを待ってるんだ。バス、来ないけどね」
その言葉を、ユキは理解できたわけではない。
ただ、少年の寂しげな声に、なぜか胸の奥がちくりと痛んだ。
それから数日、ユキは夜ごとバス停に通うようになった。
少年はいつもそこにいて、パンの端やリンゴの皮を雪の上に置いた。
ユキは少しずつ近づき、とうとう少年の足元まで来るようになった。
少年は「ユキちゃん」と呼んだ。
名前をもらったのは初めてだった。
ある夜、吹雪が来た。
森も、道も、すべて白に呑まれる。
ユキは巣穴を出ることをためらったが、胸の奥がざわざわと落ち着かなかった。
どうしても、あのバス停に行かなくてはならない気がした。
風に逆らいながらたどり着くと、ベンチの影に少年がいた。
体を丸め、マフラーを口元まで引き上げている。
ユキは思わず駆け寄り、彼の足元で鳴いた。
「……ユキちゃん?」
弱々しい声。
少年の頬は冷たく、目はうつろだった。
ユキはその手に鼻先を押しつけた。
少しでも温めたかった。
夜明けが近づくころ、遠くから車の音がした。
大人たちの声、足音、そして叫び。
ユキは森の影に身を隠しながら見ていた。
誰かが少年を抱き上げ、叫んだ。
「まだ息がある!」と。
それを聞いた瞬間、ユキは雪の中に身を沈めた。
胸の奥がじんわりと温かくなった。
春になった。
雪解けの頃、ユキは再びあの道へ行った。
バス停のベンチの下には、赤いマフラーが小さくたたまれていた。
その上に、紙切れが一枚。
「ありがとう、ユキちゃん。ぼく、また来るね。」
ユキは鼻でマフラーを押し、くるりと尾を揺らした。
空には、春の光がやわらかく広がっている。
彼女は森へ戻った。
足跡を一つずつ、雪解けの大地に残しながら。
そしてそのたび、風の中に少年の笑顔がよみがえる。
――ユキはもう、ひとりではなかった。