幼いころ、真由の誕生日ケーキはいつも同じだった。
母が焼く、ふわふわのシュークリームタワー。
その中には、黄金色のカスタードクリームがたっぷり詰まっていた。
ひと口かじると、甘くてあたたかい香りが口いっぱいに広がる。
卵のやさしさ、牛乳のまろやかさ、そしてほんの少しのバニラの香り。
それが、真由にとって“幸福”の味だった。
大人になって、忙しさの中で、そんな味を思い出すことはほとんどなくなっていた。
朝はコンビニのコーヒー、昼は会社の弁当。
帰るころには、ただ疲れだけが残る。
ある雨の夕方、ふと立ち寄った商店街の端に、小さな焼き菓子屋ができているのを見つけた。
白いのれんには、手書きで「やまね菓子店」と書かれている。
どこか懐かしい字体だった。
店内には、やわらかなバターの香りが満ちていた。
ショーケースには焼き立てのシュークリームやエクレア、プリンが並んでいる。
その中に、ひときわ明るい黄色の札が目を引いた。
――「自家製カスタードクリーム入り」
「ひとつ、ください」
思わずそう言っていた。
包みを受け取り、外に出て、雨宿りの軒下でひと口。
瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。あの味だった。
卵の風味、牛乳のやさしさ、そしてほんのりとした甘さ。
母のシュークリームと同じ、いや、それよりも少し深みのある味。
次の日も、またその次の日も、真由は仕事帰りに「やまね菓子店」に通った。
店主の女性は五十代くらいで、穏やかな笑顔の人だった。
「このクリーム、すごくおいしいです」
そう言うと、店主は嬉しそうに目を細めた。
「うちのカスタードはね、祖母の代からの味なんですよ。卵と牛乳だけで、ゆっくりゆっくり火を入れるんです。焦らずにね」
その言葉を聞いた瞬間、真由はふと気づいた。
――焦らずに、か。
いつから自分は、何もかも急ぎすぎていたのだろう。仕事も、生活も、心も。
ある日、店主から声をかけられた。
「よかったら、日曜日にお菓子教室をやるんですが、来てみません?」
真由は迷わずうなずいた。
日曜日。
小さな工房に集まったのは、近所の子どもや主婦たち。
大きなボウルに卵を割り入れ、泡立て器で混ぜる。
牛乳を少しずつ加えながら、火にかける。
「焦らないで。カスタードは、気長に混ぜてあげると、ちゃんと応えてくれますよ」
店主の声に合わせて、真由は手を動かした。
とろりとした黄金色のクリームができたとき、胸がじんわりと温かくなった。
――ああ、これだ。母がいつも台所で笑っていたときの匂い。
家に帰ると、真由は作ったカスタードを小さなガラスの器に入れ、冷蔵庫に並べた。
翌朝、それをパンに塗って食べた。
甘く、やさしい味が口の中に広がる。
ひと口で、昨日の自分より少しだけ穏やかな気持ちになれる。
それから、真由は休日に少しずつお菓子を作るようになった。
仕事でうまくいかない日も、焦る気持ちをカスタードを混ぜる手のリズムに乗せて、ゆっくりと溶かしていく。
「焦らずにね」――あの言葉が、今では彼女の魔法の呪文になっていた。
やまね菓子店のカウンターには、いつものように黄色の札が揺れている。
「自家製カスタードクリーム入り」
その文字を見るたびに、真由は心の中でつぶやく。
――この優しさを、忘れないように。