駅前の小さなベーカリー「ブロート・ハウス」には、毎朝決まって七時半に現れる客がいる。
名は加奈子。
三十代半ば、派手さはないが、どこか柔らかな雰囲気をまとった女性だ。
彼女がいつも頼むのは、焼き立てのレーズンパン。
「ひとつください」
それだけを言って、温かい紙袋を受け取ると、静かに店を出ていく。
店主の和夫は、最初のうちはただの常連客だと思っていた。
けれどある日、閉店間際に彼女が戻ってきた。
「今日は、少し焦げてしまったレーズンパンがあると聞いたのですが」
驚く和夫に、彼女は照れくさそうに笑った。
「少し焦げた方が、香ばしくて好きなんです」
それ以来、和夫は焼き上がりのトレイの端にできる“焦げ気味の子”をひとつ、そっと脇に取っておくようになった。
彼女が来るのを知っているからだ。
雨の日も、風の日も、加奈子は欠かさず店に来た。
手提げ袋の中には、職場で使うノートとペン、そしてレーズンパン。
ベンチでひと口かじると、レーズンの甘みとパンの香ばしさが混じって、いつも心が少し軽くなった。
かつて彼女は、会社員として忙しい日々を送っていた。
深夜までパソコンに向かい、コンビニのパンで朝を済ませ、電車で寝落ちするような日々。
そんなある朝、久しぶりに立ち寄ったパン屋でレーズンパンを買った。
それが「ブロート・ハウス」だった。
噛んだ瞬間、ふと涙がこぼれた。
――あ、これ、母の味だ。
小学生の頃、母はよくレーズンパンを焼いてくれた。
休日の朝、台所に立つ母の背中を眺めながら、甘い匂いに包まれる時間が大好きだった。
けれど高校生の頃、母を病で亡くしてから、その香りは家から消えた。
忙しさに紛れて、思い出すことも減っていたのに。
一瞬で、記憶の扉が開いたのだ。
それ以来、加奈子にとってレーズンパンは“お守り”になった。
仕事で悩む日も、人間関係に疲れる日も、あの香ばしい甘みが心を救ってくれた。
ある朝、和夫が焼き場から出てきて、彼女に話しかけた。
「今日のは、特別なんですよ。レーズンをラム酒に漬けてみたんです」
「へえ、ちょっと大人の味ですね」
「そう。少し疲れた大人が、元気を取り戻せるように」
その言葉に、加奈子は思わず笑った。
「じゃあ、まさに私向けですね」
パン屋を出た後、ベンチで包みを開けた。
ラムの香りがふわっと広がり、レーズンがいつもより艶やかに輝いていた。
口に入れると、甘みの奥にほのかな苦みがある。
まるで、人生の味みたいだと思った。
その日、加奈子は会社に退職届を出した。
長年勤めた職場を離れる決意をしたのだ。
怖さもあったが、不思議と心は静かだった。
数週間後、彼女は「ブロート・ハウス」に小さな紙袋を持って現れた。
「これ、少しですが」
袋の中には、手書きのレシピノートが入っていた。
「私、パンを習い始めたんです。いつか、自分でもレーズンパンを焼けるようになりたくて」
和夫は目を細め、うれしそうに頷いた。
「いいですね。焦げすぎたら持ってきてください。味見しますから」
春の風が吹き抜ける朝。
加奈子は家の小さなオーブンに生地を入れた。
焼き上がりを待つ間、キッチンが母の面影で満たされていく。
チリチリとオーブンの中で音がして、やがてこんがりとした香ばしい香りが広がった。
焼き上がったパンは少し不格好で、片端が焦げていた。
でも、その焦げた部分をひと口かじると、思わず笑みがこぼれた。
――やっぱり、この味が好き。
窓の外には朝日が差し込み、湯気の立つレーズンパンが光に包まれていた。
新しい一日が、また始まろうとしていた。