森の香り、しいたけの湯気

食べ物

山のふもとに、小さな温泉宿「ほのか」がある。
古びた木の看板には、墨で「湯」と書かれ、夕暮れになると、硫黄の匂いと湯けむりが静かに立ちのぼる。
宿の女将・絵里子は、この地で生まれ育ち、亡き父から宿を受け継いだ。
彼女の一日は早い。
まだ陽の昇らぬうちに、裏山の杉林へと入る。
籠を背負い、湿った落ち葉を踏みしめながら向かう先は、しいたけの原木が並ぶ小さな林だ。

「おはよう、今日もいい香りね」
朝露を帯びたしいたけは、木肌にふっくらと張りつき、傘の裏には細かいひだが美しく並んでいる。
絵里子はひとつひとつを丁寧に撫でながら、熟れたものを選んで籠に入れる。
その指先には、父と一緒にしいたけを育てていた頃の記憶が宿っていた。

――「しいたけはな、雨の後がいちばんいい。命がぐっと膨らむんだ」
父の声が、今でも風に混じって聞こえるようだった。

宿の朝食は、しいたけの香りで始まる。
網の上で焼いた肉厚のしいたけを、ほんの少しの塩と柚子を添えて出す。
それだけで客たちは驚いたように顔をほころばせる。
「こんなに香りがするもの、初めて食べました」
「お肉みたいね」
そう言われるたび、絵里子は胸の奥が温かくなる。

だが、宿は決して繁盛しているわけではなかった。
山奥という立地、古い建物、年季の入った風呂。
大手の温泉旅館のような派手さもない。
絵里子が頼りにしているのは、この地の味と、客との心のつながりだけだった。

ある年の秋、東京から若い料理人が一人で宿に訪れた。
名を亮と言い、有名レストランで働いているという。
「しいたけ料理が評判だと聞いて、どうしても食べてみたくて」
その目は真剣で、まるで何かを探すように光っていた。

夕食には、しいたけの炊き込みご飯、椎茸出汁の澄まし汁、炭火で焼いたしいたけの田楽。
どれも素朴な料理だったが、亮は箸を止めず、静かに味わい続けた。
「……こんなに深い味がするなんて」
呟く声には驚きと敬意が混じっていた。

翌朝、彼は絵里子のしいたけ採りに同行したいと言い出した。
「料理人として、素材の始まりを知りたいんです」
その真っ直ぐな言葉に、絵里子は父を思い出し、頷いた。

林の中で、二人は黙々としいたけを摘んだ。
陽が差し込み、木漏れ日が傘の表を照らす。
「生きてるみたいですね」亮がそう言うと、絵里子は微笑んだ。
「ええ。しいたけは静かに呼吸してるの。湿り気と光があれば、ちゃんと応えてくれる」

その日、宿の台所で二人は並んで料理をした。
亮が持ってきたオリーブオイルでしいたけをソテーし、絵里子はそこに自家製の柚子味噌を添えた。
香ばしい匂いが広がり、湯けむりの中に混ざっていく。

「東京でこの味を出したら、きっと話題になりますよ」
「ここでしか出せない味なのよ」
絵里子の声は穏やかだった。

やがて、亮は帰り際に言った。
「僕、いつかこの宿で修行させてもらえませんか。料理じゃなくて、“味の根っこ”を学びたい」
絵里子は驚き、そして微笑んだ。
「その時が来たら、いつでもいらっしゃい」

季節は巡り、冬。
雪に覆われた山の中で、しいたけは静かに眠りにつく。
宿の囲炉裏では、絵里子が焼いたしいたけが香ばしく音を立てている。
あの日の亮から届いた手紙には、こう書かれていた。

――「あの森の香りが忘れられません。春になったら、また伺います」

絵里子は湯気に包まれながら、手紙をそっと胸に当てた。
森の香りは、今日も息づいている。
しいたけの湯気の向こうには、父の笑顔と、未来の料理人の夢が、静かに揺れていた。