夏の夕暮れ、街の広場に灯りがともる。
風に乗って、ソースの香ばしい匂いがふわりと流れてきた。
「ああ、今年もこの季節が来たんだな」
悠真は、手にしたうちわを止めて、広場の隅にある屋台を見つめた。
そこには、赤いのれんに「焼きそば」と書かれた古びた屋台。
湯気の向こうで鉄板を操るのは、白髪混じりの男――浩二さんだ。
子どものころから変わらないその姿に、悠真は思わず笑みを浮かべる。
「お、悠真か。久しぶりだな。就職したって聞いたぞ」
「ええ、東京の会社で。……今日はたまたま出張で戻ってきたんです」
「そうかそうか。ほら、せっかくだから食ってけよ。おまけしとくからな」
浩二さんが手際よく麺を炒める。
鉄板の上で麺が踊り、油が弾け、ソースがじゅうっと音を立てる。
その音と匂いが、悠真の胸に懐かしさを呼び起こした。
小学生のころ、祭りのたびに友だちと駄菓子を買い、最後にここで焼きそばを食べた。
高校の帰り道、部活の試合に負けた日も、悔し涙をこらえながらこの味に慰められた。
大学進学で町を出る前夜、親友と二人で食べた焼きそばの味――それが、故郷の味そのものだった。
「はいよ、特製焼きそば。目玉焼きのっけサービスな」
浩二さんが紙皿を差し出す。
黄身の輝きが夕焼けのようで、思わず見とれてしまう。
「やっぱり、これですよ。東京じゃ、こういう味に出会えないんです」
「へえ、そんなもんか。今どきどこでも食えると思ってたけどな」
「違うんです。味だけじゃなくて……雰囲気とか、人の温かさとか」
悠真は箸を進めながら、言葉を選んだ。
東京の食堂で食べる焼きそばは美味しい。
だが、どこか冷たい。
ここで食べる一皿には、風の匂いも、遠くの笑い声も、昔の自分も混ざっている気がする。
「浩二さん、いつまでこの屋台続けるんですか?」
「そうだなあ……もう歳だからな。今年で最後にしようかと思ってる」
悠真の箸が止まった。
「……最後、ですか?」
「うん。孫も生まれたし、そろそろゆっくりしてもいいだろ。毎年夏になると腰が悲鳴を上げるんだ」
冗談めかして笑う声が、少しだけ寂しげに聞こえた。
悠真はしばらく黙って焼きそばを口に運んだ。
ソースの味が、いつもより少しだけしょっぱく感じた。
食べ終わると、浩二さんが鉄板の火を弱めながらぽつりと言った。
「俺の焼きそば、そんなに好きだったか?」
「大好きです。……この味があったから、どんなにしんどくても頑張れた気がします」
「そっか。なら、ちょっと待ってな」
浩二さんは屋台の奥から、古びた鉄のフライ返しを取り出した。
「これ、俺が若いころから使ってたやつだ。もしよかったら、持っていけ」
「えっ、でもそんな……」
「いいんだ。どうせ俺が持ってても、サビるだけだ。お前が使ってくれた方が嬉しい」
悠真は両手で受け取った。
重みがあった。
それは、長い年月の分の想いだった。
「ありがとうございます。いつか、自分の屋台を出せるくらい腕を上げます」
「ははっ、いいねぇ。そしたら、俺が客として食いに行くよ」
夜の帳が降りるころ、広場の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
悠真はふと空を見上げた。
夏の星が瞬いている。
手の中には、あのフライ返し。
胸の中には、変わらぬ焼きそばの香り。
――焼きそばの味は、記憶と同じだ。
時間が経っても、心の奥であの日のまま生き続ける。
そして、いつか自分の鉄板の上で、その味をもう一度再現しよう。
あの屋台の灯りを、今度は自分の手で灯すために。