薔薇の約束

面白い

春の陽がやわらかく降り注ぐ丘の上に、「ローズ・ガーデン結衣」はある。
白いアーチをくぐると、無数の薔薇が迎えてくれる。
深紅、淡桃、雪のような白。
風が吹くたび、香りがふんわりと流れ、まるで夢の中を歩いているようだった。

園の主・結衣は三十代の女性で、亡き祖母からこの庭を受け継いだ。
祖母・澄江は、生前この庭を「愛の記憶を咲かせる場所」と呼んでいた。
結衣が子どものころ、祖母はいつも薔薇の手入れをしながら言っていた。
「花はね、人の想いを覚えているのよ。悲しい想いも、嬉しい想いも」

結衣はその言葉の意味が、今になってようやく少しだけわかる気がしていた。
祖母が亡くなってから三年、結衣はほとんど毎日庭に出て、黙々と手を動かしていた。
剪定ばさみの音と鳥の声だけが、静かな時間を満たしていた。

そんなある日、ひとりの青年が庭を訪ねてきた。
カメラを提げたその青年は、少し緊張した面持ちで言った。
「写真を撮らせていただけませんか。大学の卒業制作で、‘記憶を残す風景’をテーマにしているんです」

彼の名は海斗。結衣は快くうなずき、薔薇の咲き誇る小径を案内した。
撮影をしながら、彼は何度も「すごいですね」「この香り、忘れられません」と笑った。
その笑顔は、どこか少年のようで、結衣の胸の奥に小さな灯がともるようだった。

撮影のたびに海斗は訪ねてきた。
雨の日も、曇りの日も、光の表情を追いかけて。
彼はカメラを構えながら、時々ぽつりと話した。
「子どもの頃、母と一緒に来た場所があったんです。バラ園で、同じ匂いがして……でも、もうその庭はなくなっちゃって」
その言葉に、結衣の心が少し痛んだ。
「じゃあ、この庭が新しい思い出の場所になればいいね」
そう言うと、海斗は照れたように笑った。

やがて、彼の卒業制作の最終撮影の日が来た。
空は青く澄み、風に揺れる薔薇が光を散らしている。
海斗は最後の一枚を撮る前に、静かに言った。
「この庭の写真集を作りたいんです。タイトルは『薔薇の約束』。結衣さんが守ってきた時間を、僕なりに残したい」

結衣は言葉を失った。
祖母の手から受け取ったこの庭が、誰かの心に新しい形で根づこうとしている。
そのことが、ただ嬉しかった。

その年の秋、写真集『薔薇の約束』は小さな出版社から刊行された。
ページをめくると、どの写真にも光が宿っていた。
露に濡れた花びら、散りゆく花弁、手入れをする結衣の横顔。
そして巻末には、海斗の短い言葉が添えられていた。
「この庭で、想いは花のように咲き続ける。」

冬が来て、庭の薔薇が葉を落としても、結衣の心は静かに温かかった。
海斗は今、遠い街で新しい庭を撮っているという。
けれど、春が近づくと決まって一通の手紙が届く。
封筒には必ずこう書かれていた。

——また、薔薇が咲いたら。

丘の上の庭には今日も、風が吹き抜けていく。
新しい蕾が陽を受けてほころび、結衣はそっとそのひとつに手を添える。
「おばあちゃん、約束はちゃんと咲いたよ」

白いアーチの向こうで、春がまた静かに微笑んでいた。