潮騒の手紙

面白い

海辺の町に生まれ育った沙月(さつき)は、幼いころから波の音が好きだった。
朝の穏やかな寄せ返す音も、夜に荒れる風と混ざる激しい音も、彼女にはどこか懐かしく、心の奥をやさしく撫でるように感じられた。

祖母の家は、崖の上に建つ古い木造の家だった。
窓を開ければ、潮風とともに波音が広がる。祖母はよく言っていた。
「波の音には、人の声が混じるんだよ。海が寂しいときに呼ぶ声なんだ」――その言葉を、沙月は少し怖く、けれどどこか魅力的に思っていた。

高校を卒業すると同時に、彼女は町を離れた。
都会の音に囲まれた暮らしは便利で華やかだったが、夜の静けさの中で耳を澄ますと、どこか物足りなかった。
海の音がないだけで、心が空洞になるようだった。

そんなある日、祖母の訃報が届いた。
沙月はすぐに町へ戻り、葬儀のあと、ひとりであの崖の上の家を訪れた。
潮風は少し冷たく、波は遠くで静かに呼吸をしているようだった。

久しぶりに開けた祖母の部屋には、古い木机が残されていた。
その引き出しの奥に、小さな封筒が入っていた。
宛名は「沙月へ」。

震える手で封を開けると、祖母の丸い文字が並んでいた。

――もしこの手紙を読んでいるなら、わたしはもう海の向こうへ行ったのでしょうね。
でもね、沙月。波の音は、記憶を運んでくれるの。
風が強い日も、穏やかな日も、海は生きている。
その音を聞くとき、あなたの心の中に、きっと誰かの声が届く。
それがわたしなら、うれしいね。

読み終えた瞬間、沙月は胸が締めつけられた。
外から聞こえる波の音が、まるで返事のようにやさしく響いた。

その夜、彼女は縁側に腰を下ろし、ただ波音に耳を澄ませた。
潮の匂いが懐かしく、頬に触れる風が心地よい。
どこかで祖母が笑っているような気がした。

翌朝、海辺を歩いていると、地元の漁師が声をかけてきた。
「おや、沙月ちゃんじゃないか。久しぶりだねぇ。ばあちゃん、よく波を録音してたの知ってるかい?」
「録音?」
「ああ。カセットにね、毎日の波の音を残してたんだよ。“いつか沙月に聞かせたい”って言ってた」

家に戻ると、祖母の部屋の棚に古いカセットテープがいくつも並んでいた。
ひとつ手に取り、古びたプレーヤーに差し込む。

――ザザーッ、ザザン。

スピーカーから流れるのは、確かにあの日の海の音だった。
波が寄せて、引いて、また寄せて。
そしてその奥で、小さな声が聞こえた。

「沙月、今日の海はやさしいね。あなたも、やさしい心を忘れないでね」

それは間違いなく、祖母の声だった。

涙が頬を伝った。
波の音が少し揺れて、部屋全体がやわらかく包まれるように響いた。
都会では味わえない静けさ――それは決して「無音」ではなく、命の息づく音だった。

その日から、沙月は毎晩、海辺の音を聞きながら眠るようになった。
録音を再生する日もあれば、ただ窓を開けて、風と波の声に耳を預ける日もある。

いつしか、心の中で祖母の声がこう囁くように思えた。
「波はね、あなたの中にもあるんだよ。心が揺れるたびに、それは海の音になるの」

春が来て、海辺の町にも観光客が戻ってきた。
沙月は小さな喫茶店を開いた。
店名は「潮音(しおね)」。
窓辺の席では、いつも静かに波の音が流れている。
客たちはみな、その音に耳を澄ませながら、穏やかな顔でコーヒーを飲む。

沙月はカウンターの奥で微笑む。
祖母の声が、今もどこかで潮騒とともに響いている気がするのだ。

――波の音は、記憶の形。
消えない優しさの証。

そして今日も、潮風に乗って、彼女の心の中でそっと鳴り続けている。