エンジンをかけた瞬間、胸の奥が小さく鳴った。
低く唸る音が足の裏から伝わってくる。
久しぶりに感じる震えに、体が少しだけ前のめりになった。
――また、走れる。
坂本涼は、ハンドルを握りながらゆっくりとアクセルを回した。
赤いバイクが朝の光を受けて、静かに車体を震わせる。
高校を卒業してからずっと、整備工場で働きながらバイクをいじる日々を送ってきた。
だが、このバイク――古いホンダのCB400は、父の形見でもあった。
父はツーリングが好きな人だった。
休日になると必ずどこかへ走りに行き、帰ってくると決まって「風は裏切らないぞ」と笑っていた。
その言葉の意味を、涼は当時わからなかった。
五年前、父が事故で帰らぬ人となり、ガレージの奥に残されたバイクを前にして、涼はただ立ち尽くした。
壊れていた部分を直す気にもなれず、埃が積もっていくのを見ているだけの日々が続いた。
だが去年、ふと整備工場の先輩に言われたのだ。
「乗らないと錆びる。機械も、人の気持ちもな」
それがきっかけだった。
部品を探しては磨き、エンジンを分解しては組み直した。
父の手の跡が残る工具を握るたび、少しずつ心が柔らかくなっていくのを感じた。
そして今日、ようやく走り出せる日が来た。
涼はギアを入れ、クラッチをゆっくり離した。
バイクが前へと動き出す。
風が頬を撫で、街並みが流れていく。
信号が青に変わるたび、心も軽くなっていった。
目的地は、父とよく行った山の展望台だった。
道中には緩やかなカーブと広い田園が続く。
遠くには秋の稲穂が金色に光り、風に揺れている。
アクセルを少し開けると、エンジン音が高く鳴った。
鼓動と重なり合うようにリズムを刻む。
バイクというより、もう一つの心臓のようだった。
途中、休憩のために道の駅に寄ると、隣に停まったライダーが声をかけてきた。
「いい音してるな。古いけど、手入れが行き届いてる」
涼は少し照れながら笑った。
「父の形見なんです。ようやく直せて」
「それはいい。走らせてやることが一番の供養だ」
その言葉に、胸が熱くなった。
再び走り出すと、山道に差しかかった。
木々の間を抜ける風がひんやりと冷たく、空気が澄んでいた。
カーブを曲がるたび、タイヤが路面をしっかりと掴む感触が心地よい。
展望台に着く頃には、太陽が傾きかけていた。
涼はヘルメットを脱ぎ、息を整える。
目の前には広がる青空と、街を見下ろす景色。
遠くに光る海の筋が見えた。
――父さん、来たよ。
風が吹いた。まるで背中を押すように優しい風だった。
その瞬間、涼は思った。
父の言葉の意味を、ようやく理解した気がした。
「風は裏切らない」。
それは、どんなに時が経っても、自分の中に生き続けるもの――走る喜び、心の自由、そして誰かへの想い。
バイクのタンクをそっと撫でる。
金属の冷たさの奥に、確かに温もりがあった。
夕陽の中、涼は再びヘルメットをかぶり、エンジンをかけた。
今度は目的地も決めず、ただ風の向くままに走ろうと思った。
父が愛した道を、父が残したバイクで。
風と一緒に、これからも――。