風と歩幅を合わせて

動物

――朝の光が、牧場の柵を金色に染めていた。

美沙はいつものように、黒いヘルメットを手に持って馬房へ向かった。
そこには、栗毛の馬・ルークが静かに待っている。
彼の瞳は深く、どこか人間よりも人間らしい優しさを湛えていた。

「おはよう、ルーク」

そう声をかけながら首筋を撫でると、ルークは鼻をふんと鳴らして応えた。
その息の温かさが、美沙の胸の奥に沁み込む。

彼女が乗馬を始めたのは、社会人になって三年目の春だった。
職場では営業成績を競い、終電に間に合わせる日々。
ふと立ち寄った乗馬クラブで見た馬の姿が、あまりにも静かで、力強くて――心が吸い寄せられた。

最初はただの趣味だった。
だが、続けるうちに、馬と呼吸を合わせることの奥深さに惹かれていった。
馬の機嫌、天気、風の流れ、鞍のきしみ。
そのどれか一つでも噛み合わなければ、走り出せない。

「今日も、よろしくね」

馬装を整え、鐙に足をかける。
背筋を伸ばして鞍に腰を下ろす瞬間、全身の神経が研ぎ澄まされる。
地面が少し遠くなり、視界が広がる。
人と馬の境界が、ほんの少しだけ溶ける。

指導員の掛け声が響く。
「では、常歩(なみあし)から始めましょう!」

ルークが一歩を踏み出す。
蹄の音が、乾いた地面にリズムを刻む。
その音を聞くたび、美沙は都会でのざらついた時間が遠ざかっていくのを感じた。

「もっと手綱を緩めて。信じてあげて」
「はい」

ルークの動きに身を任せる。
風が頬を撫で、青空が近づいてくる。
疾走するほど、彼との距離は近づくのに、どこまでも自由だった。

だが、夏の終わりに小さな事件が起きた。
美沙が仕事の忙しさで二週間ほどクラブを休んだある日、ルークが落馬事故で脚を痛めたと聞いた。
命に別状はないが、しばらくは走れないという。

牧場に駆けつけた彼女を見て、ルークは穏やかに首を振った。
彼女の心には、後悔と焦りが混じり合った。

「私がいない間に、苦しい思いをさせちゃったね……」

ルークの目が一瞬、美沙を見つめた。
その瞳に責める色はなく、ただ静かな信頼が宿っていた。

その日から、美沙は毎週ルークのもとへ通い、ブラッシングだけを続けた。
走れなくても、そこにいるだけで心が通う。
沈黙の時間が、言葉よりも多くを語ってくれることを知った。

秋風が冷たくなった頃、ルークは少しずつ歩けるようになった。
指導員が言った。
「軽い運動なら大丈夫ですよ。乗ってみますか?」

美沙は一瞬、ためらった。
でも、ルークの瞳が「行こう」と言っているように見えた。

鞍にまたがり、深呼吸をひとつ。
「ゆっくりね、ルーク」

一歩、また一歩。
ルークの歩幅に合わせて、美沙も呼吸を整える。
風が頬を撫で、木の葉が舞った。
走っていたころよりもずっとゆっくりだが、その分だけ確かだった。

――ああ、これが本当の「一緒に進む」ということなんだ。

速度でも、成果でもない。
ただ、お互いの存在を信じて前へ進む。
仕事の世界では得られなかった感覚だった。

夕暮れの牧場に、橙の光が差す。
美沙はルークの首に手を置き、静かに囁いた。
「ありがとう。私、やっとあなたと同じ速さで歩ける気がする」

ルークが鼻を鳴らし、頬に温かい息を吹きかけた。

その音は、どんな拍手よりも優しかった。

――風と歩幅を合わせて。
二つの鼓動が、同じリズムで響いていた。