白の余韻

食べ物

白い魚の身に、金色の味噌がゆっくりと焦げていく。
台所に甘く香ばしい匂いが広がると、山本紗代は思わず目を閉じた。
鱈の西京焼き。
子どものころから変わらず、彼女の心を落ち着かせる料理だった。

会社から帰ると、冬の夜の冷たい空気が指先まで染みた。
小さなマンションのキッチンで、彼女は味噌床を開け、前の晩から漬けておいた鱈をそっと取り出す。
柔らかな身が味噌の香りを吸い込み、表面はしっとりと輝いていた。

「もう、十年になるんだな」

紗代は小さくつぶやいた。
十年前、母が亡くなった日も、この料理を作った。
葬儀のあと、家に帰ると冷蔵庫に母が漬けた鱈が残っていたのだ。
泣きながら焼いたその味を、今でも覚えている。

母は料理上手だったが、特別なものを作るわけではなかった。
家庭の味、飾らない優しさ。
中でも西京焼きは「疲れたときほど、美味しく感じるのよ」とよく言っていた。
白味噌にみりんと少しの酒を混ぜ、二晩ほど漬け込む。
母の手の温もりと香りが、味噌床の中にいつも生きていた。

それから紗代は、母のように料理をすることが心の支えになった。
仕事で失敗して落ち込んだ日、恋人と喧嘩した日、転職を迷った日。
どんなときも台所に立ち、鱈を味噌に沈める。
その作業をしていると、心が静まるのだった。

そんなある日、職場の後輩・遥が彼女の家に遊びに来た。
「先輩、すごくいい匂いしますね。今日の夕ごはんは?」
「鱈の西京焼き。よかったら食べていきなさい」
テーブルに並べると、遥は驚いたように箸を止めた。
「やさしい味……なんか、懐かしいです」
紗代は微笑んだ。
「味噌の香りが、心をほぐすのかもしれないね」

食後、遥がふと尋ねた。
「先輩って、誰かのために料理してるんですか?」
紗代は少し考えたあと、首を横に振った。
「今は、自分のためにしてるの」
母を亡くしてから、誰かに食べてもらうためではなく、自分を守るために料理をしてきたのだ。
鱈の身がほぐれるように、心の重さも少しずつほどけていく気がした。

それからしばらくして、遥が転勤で地方支社へ行くことになった。
送別会の帰り道、冷たい風が頬を撫でる中で、紗代はぽつりと言った。
「寒い夜には、鱈の西京焼きが合うよ」
遥は笑った。
「じゃあ、私も作ってみます。味噌、焦がさないように気をつけますね」

その冬の終わり、紗代は母の古いノートを見つけた。
ページの隅に、小さな字で書かれていた。
“料理は、味よりも思い出を残すもの。”

ノートの間には、黄ばんだレシピカード。
そこには「鱈の西京焼き」と母の字で書かれていた。
味噌の分量も、漬け時間も、すべて覚えていたはずなのに、その文字を見るだけで涙がにじんだ。

その夜、彼女は久しぶりに丁寧に味噌床を作った。
木べらでゆっくり混ぜながら、心の中で母に語りかける。
「お母さん、私ね、ちゃんと元気でやってるよ」

翌朝、焼きたての鱈を皿にのせて、窓の外を見ると、淡い雪が舞っていた。
白の世界に溶け込むような、やさしい香り。
箸を入れると、身がふわりと崩れ、味噌の甘さと魚の塩気が舌に広がった。

その瞬間、彼女の中にあった寂しさが少しだけ温かく溶けた。
母がくれた味は、今も生きている。

紗代は小さく微笑み、静かに呟いた。
「この味、誰かにまた食べさせたいな」

白い湯気の向こうで、春の気配が少しだけ近づいている気がした。