雪がちらつくある冬の日、古い商店街の角にある小さな和菓子屋「白雪堂」に、ひとりの青年が足を踏み入れた。
名を拓也といい、二十代半ばの会社員である。
彼は誰よりも餅を愛していた。
子どものころ、祖母がついてくれる正月の餅の味に心を奪われたのがきっかけだ。
蒸したての米を杵で打ち、弾力と香りを持った白いかたまりになる過程。
その音と匂い、そして口に広がる素朴な甘み。
あの日の記憶は拓也の心に強く刻まれ、それ以来「餅さえあれば幸せだ」と本気で思うほどの餅好きになってしまった。
だが現代の都会で、そんな餅を日常的に味わう機会は少ない。
スーパーの切り餅や真空パックでは物足りず、拓也は休日になると「本物の餅」を求めて町を歩いた。
その旅のような散歩のなかで見つけたのが、古びた暖簾を掲げた「白雪堂」であった。
年季の入った木戸を押して入ると、白い粉がほのかに舞い、奥では年配の店主が臼を前に腰をかけていた。
「いらっしゃい」
しわがれた声に迎えられ、拓也の胸は高鳴った。
ガラスケースには、あんこを包んだ大福、黄な粉餅、草餅、豆餅……と、色とりどりの餅菓子が並んでいる。
拓也は迷わず大福を一つ買い、その場で頬張った。
柔らかく伸びる餅の中から、ほどよい甘さの粒あんが広がる。
思わず目を閉じた。
「……これだ」
祖母の餅を思い出させる懐かしさに、心の奥がじんと温かくなった。
それから拓也は、毎週末「白雪堂」に通うようになった。
店主の佐吉は最初こそ無口だったが、熱心に餅を頬張る青年に心を開き、少しずつ餅の話をしてくれるようになった。
「米はね、ただ炊けばいいってもんじゃない。
水加減、蒸し加減、そして杵の入れ方。
それで餅の顔つきが変わるんだ」
その言葉に拓也は目を輝かせ、いつしか餅作りの手伝いまでするようになった。
やがて正月が近づくころ、佐吉は拓也に言った。
「今年はうちで餅つきをやる。近所の人たちを呼んでな。お前も来なさい」
迎えた大晦日、商店街の一角に人々の笑い声が響いた。
臼と杵を囲んで子どもたちが順番を待ち、大人たちが声を合わせて掛け声をかける。
拓也も汗を流しながら餅をつき、その出来立てをみんなで丸めて食べた。
つきたての熱い餅を頬張り、笑顔が弾ける。
その光景を見ながら、拓也はふと思った。
「餅って、人をつなげる力があるんだな」
それからというもの、拓也は餅好きとして食べるだけでなく、作り手として人にふるまう喜びを知った。
休日には友人や同僚を「白雪堂」に誘い、一緒に餅を味わった。
最初はただの趣味だったが、次第に「もっと多くの人に餅の魅力を伝えたい」と強く願うようになる。
数年後、佐吉の引退をきっかけに、拓也は思い切って会社を辞めた。
そして「白雪堂」を引き継ぐことになる。
周囲は驚いたが、彼の心に迷いはなかった。
朝早くから米を蒸し、臼を打ち、餅を丸める。
最初は慣れずに失敗も多かったが、佐吉が残した言葉を胸に繰り返すうち、少しずつ手が覚えていった。
ある日、店にやってきた子どもが「ここの大福が一番好き!」と笑った。
その言葉に拓也は、祖母の餅を食べたあの日の自分を重ねた。
餅のやわらかさに宿る温もりは、世代を越えて心を満たすものなのだ。
店先に並ぶ色とりどりの餅菓子を見て、拓也は静かに決意した。
「俺は、これからも餅を作り続ける。人の笑顔を、この餅でつないでいくんだ」
雪の舞う商店街の片隅で、小さな和菓子屋の灯は今日も温かくともり、餅を愛する青年の物語は続いていく。