佐織は小さな木箱を開けた。
中には整然と並んだ細長い棒状のお香や、丸く固められた練り香が入っている。
色合いは地味だが、それぞれ微妙に違う香木や花の香りを宿している。
彼女にとって、それは日常を整えるための宝物だった。
仕事から帰ると、まずお香を選ぶのが習慣になっていた。
今日の気分は落ち着きを求めて白檀にしようか、それとも気持ちを軽くしたくて沈香を焚こうか。
火を点けると、細い煙が立ち上り、部屋の空気をゆっくりと包み込む。
その瞬間、佐織はようやく自分が帰ってきたのだと実感するのだった。
お香との出会いは、十年前、京都の小さな寺でのことだった。
友人に誘われ、観光のつもりで訪れた寺の一角で、香席と呼ばれる体験会が開かれていた。
そこでは目を閉じ、香炉から立ちのぼる香りを静かに嗅ぐ。
ただそれだけの行為が、驚くほど心を落ち着かせることに、彼女は衝撃を受けたのだ。
「香りって、思い出を呼び覚ますものなのですね」
そのとき隣にいた老僧が静かに頷いた。
「香りは形がないゆえ、心に深く刻まれるのです。目や耳が閉ざされても、香りの記憶はふいに蘇ることがあります」
それ以来、佐織は香の世界に惹き込まれていった。
休日には香木を扱う専門店を巡り、異国の香料や日本古来の調合に触れた。
最初はただ心地よさを求めるだけだったが、次第に彼女は香りに込められた文化や歴史にも関心を寄せるようになった。
香りは時に、人と人をつなげる役割も果たした。
数年前、仕事で大きな失敗をした佐織は、上司に呼び出され落ち込んでいた。
帰り道に偶然立ち寄った雑貨店で、気まぐれに買った藤の花を模したお香を焚いた。
ふわりと漂う甘やかな香りが涙を和らげ、翌日、少し前向きな気持ちで職場に戻ることができた。
その後、その香りをきっかけに同じ趣味を持つ同僚と親しくなり、今では一緒に香道の会へ通う仲にまでなっている。
香りはまた、佐織にとって亡き母の記憶を結びつける糸でもあった。
母は花が好きで、特に庭に咲く白百合を大切にしていた。
母が亡くなった後、友人から贈られた百合の香りのお香を焚いた瞬間、佐織は涙が止まらなくなった。
香煙に包まれていると、まるで母がすぐ傍にいるかのような錯覚を覚えたのだ。
今夜も窓の外では秋の風が木々を揺らしている。
佐織は小箱から伽羅のお香を選び、火を灯す。
甘くも重厚な香りが広がり、部屋の空気を柔らかく染め上げた。
目を閉じると、これまで出会った人々や、歩んできた時間がゆるやかに蘇る。
香りは目に見えない。
けれど、それは確かに彼女の人生に寄り添い、日々の出来事をそっと彩ってきた。
煙が静かに消えていくとき、佐織は思う。
――いつか自分が誰かの記憶の中で香りのように残ることができたなら、それはきっと幸せなことだろう。
彼女はそう願いながら、もう一本のお香に火を点けた。