けんちん汁の湯気の向こう

食べ物

佐藤真由美は、週末の朝になると必ず市場に出かける。
勤め先の小さな書店が休みの日だけの習慣だ。
野菜の青い匂いと、威勢のいい掛け声に囲まれると、心がすっと軽くなる。

真由美の目当ては決まっている。
大根、里芋、ごぼう、にんじん、こんにゃく。
季節によってはきのこや豆腐も欠かせない。
かごの中身は、まるでけんちん汁の設計図のようだった。

「今日も具沢山だねえ」
野菜を並べる八百屋の女将が笑う。
「ええ、これがないと一週間が始まらなくて」
真由美は頬を緩める。

彼女がけんちん汁を好きになったのは、小学生のころに亡くなった祖母の影響だった。
祖母はいつも、冬の寒い日に大鍋でぐつぐつ煮込み、囲炉裏のそばに置いた。
土間に広がる湯気は、味噌と野菜の甘みが混じったあたたかな香りで、外から帰ってきた家族を迎えてくれた。
真由美にとって、けんちん汁は「家族の温度」の象徴だったのだ。

――けれど今は、ひとり暮らし。
大鍋に作っても食べきれず、冷蔵庫に並ぶ容器を見ては苦笑いする。
温め直すたびに味が染みていくのは嬉しいが、食卓を囲む人の声がないのは少し寂しかった。

そんなある日、商店街の掲示板に「料理サークル・メンバー募集」の張り紙を見つけた。
年齢も性別も問わないとある。
少し迷ったが、思い切って参加してみることにした。

会場は公民館の調理室。
エプロン姿の人々が自己紹介を交わし、笑い合っていた。
彼女は緊張しつつ名乗る。
「佐藤真由美です。けんちん汁を作るのが好きです」
その言葉に、数人が「いいですね」と声をあげた。
中でも、一人の男性が目を輝かせた。
「僕も大好きなんです。うちの母がよく作ってくれて」

その男性、吉岡健二は、同年代で同じように一人暮らしをしていた。
野菜を切る手際は不器用だったが、丁寧で真面目な性格が伝わってくる。
サークルでは毎回テーマが決まり、煮物や炒め物をみんなで作るのだが、ある日「郷土料理を持ち寄ろう」という話になった。

「じゃあ、私はけんちん汁を」
真由美が言うと、健二がうれしそうにうなずいた。

当日。
大鍋に野菜をたっぷり入れ、炒めてからだしを注ぎ、味噌を溶く。
ぐつぐつと煮立つ音に耳を澄ませると、心の奥が温められる気がした。
健二は隣で「里芋の皮、難しいですね」と額に汗をにじませている。

完成したけんちん汁を、サークルのみんなが笑顔で味わった。
「体があったまる」
「野菜の甘みがしみるね」
そんな感想が飛び交い、真由美は胸がいっぱいになった。
自分が好きな料理が、他の人の笑顔を生む。
その光景は、祖母が家族に囲まれていた時の記憶と重なった。

片付けが終わったあと、健二が声をかけてきた。
「あの、もしよければ……今度ふたりで一緒に作りませんか? けんちん汁」
頬を赤らめながら差し出された言葉に、真由美は驚き、そして自然に笑った。
「ええ、もちろん」

それから二人は時々集まり、材料を買っては鍋を囲んだ。
だしの濃さや味噌の種類を変えたり、きのこを多めにしたり。
味は毎回少しずつ違うけれど、ふたりで食べると不思議と同じぬくもりがあった。

やがて冬が来るころ、真由美は思った。
――けんちん汁は、家族の味だった。
そして今は、新しい縁を結ぶ味にもなっている。
湯気の向こうに、誰かの笑顔がある限り、この汁はきっと、これからも温かくあり続けるのだろう。