北国の港町に暮らす浩一は、幼いころからホタテが好きだった。
好きといっても、ただ食べるのが好きというだけではない。
殻の模様や、潮の香りとともに焼かれる音、そして何よりもそれを囲む人々の笑顔――ホタテは彼にとって、家族の思い出そのものだった。
父は漁師だった。冬の海に出て、分厚い防寒着を着込みながらも、真っ赤にかじかんだ手で網を引き上げる。
そこに白く丸い殻が混ざっていると、父の顔は一瞬で明るくなった。
「今日はいいホタテが獲れたぞ」と家に帰ってきては、母と一緒に台所に立ち、焼き網の上に並べた。
殻が熱で少しずつ開き、じゅわっと汁があふれ出す。
その香りが部屋いっぱいに広がると、幼い浩一は待ちきれずにテーブルにつき、熱々を頬張った。
だが父が海で事故に遭い、還らぬ人となったのは、浩一が高校を卒業する春だった。
漁師仲間の言葉も、母の沈黙も、彼にとってはただ冷たい風のように過ぎ去った。
食卓にホタテが並ぶこともなくなり、殻の白ささえ見るのがつらかった。
浩一は進学のために町を出て、東京で暮らし始めた。
都会の暮らしに慣れるにつれ、故郷のことを思い出す時間は減った。
忙しい日々、コンビニ弁当を食べながら「自分はもう港町の人間ではない」と言い聞かせることもあった。
だがある日、会社の同僚に誘われて入った居酒屋で、メニューに「活ホタテの浜焼き」と書かれているのを見つけた。
胸の奥が強く締めつけられるようで、彼は思わず注文した。
運ばれてきた殻付きホタテは、かつて父が焼いてくれたものよりも小さく、火力の強いガスバーナーであっという間に焼き上げられてしまった。
それでも一口かじった瞬間、潮の香りが鼻を抜け、甘みが舌に広がった。
懐かしい情景が鮮やかによみがえる。
父の笑顔、母の微笑み、自分の無邪気な声。
浩一は、店のざわめきの中でひとり静かに涙をこぼした。
その夜、アパートに戻った彼は机に向かい、故郷の母に手紙を書いた。
電話ではなく、どうしても手書きの文字で伝えたかった。
「お母さん、あの頃のホタテの味を、また一緒に食べたい」と。
数か月後、久しぶりに町へ帰った浩一を、母は港の近くの古びた家で迎えた。
食卓の上には、父が使っていた焼き網が置かれている。
母は笑って「少し焦げてるけど、まだ使えるのよ」と言った。
火を起こし、殻付きホタテを並べる。
じわじわと開いていく殻、その合間から溢れる汁の音に、浩一の胸は熱くなる。
母と二人で口にしたホタテは、やはり少し塩辛く、それでいて甘かった。
涙の味が混じっていたからだろう。けれど同時に、不思議なほど温かかった。
父がいなくても、この味は続いていく。
記憶の中だけではなく、母の手と自分の舌に刻まれて。
その夜、港に出ると、海は凪いで月明かりを映していた。
浩一は潮風を受けながら、心の中で父に語りかけた。
「おれはまだ、この町の人間でいいか?」と。
答えは風に消えたが、波の音が優しく背中を押してくれるように響いた。
東京に戻ってからも、浩一は時々ホタテを買ってきて、簡単なコンロで焼くようになった。
仲間を招いて振る舞うと、皆が笑顔になる。
その瞬間、父の「今日はいいホタテだぞ」という声が重なる気がする。
浩一にとってホタテは、ただの貝ではなかった。
家族の絆であり、故郷の記憶であり、これから先も守り続けたい灯火だった。
殻に閉じ込められた潮の香りを嗅ぐたびに、浩一は確信する。
ホタテの味は、過去を呼び戻すだけでなく、未来へとつなぐ橋でもあるのだと。