甘酸っぱい記憶

食べ物

山あいの小さな村のはずれに、古い畑の跡があった。
そこには耕す人もなく、石垣の隙間から風が通り抜け、季節ごとに草花が勝手気ままに伸びていた。
その片隅に、ひっそりと根を張る木苺の茂みがあった。

木苺は春になると白い小さな花を咲かせ、夏には赤く甘酸っぱい実をつける。
人の手に触れられることも少なく、鳥や風、時には通りすがりの子どもたちだけが、その実を口にする程度だった。
それでも木苺は満ち足りていた。
太陽を浴び、雨を吸い、ただそこに在ることで生きていられるのだから。

けれど木苺には、ひとつだけ願いがあった。
「だれか、わたしを本当に必要としてくれる人に出会いたい」

ある夏の午後、一人の少女が畑跡に迷い込んだ。
名前は茜といった。
小学校の終わりを迎えたばかりの彼女は、最近、両親の不仲に悩み、家に居場所を見つけられずにいた。
山道をふらふら歩いては、心を落ち着けようとしていたのだ。

茜はふと赤く光る実を見つけ、木苺の茂みに近寄った。
小さな手でひとつ摘んで口に入れる。
甘酸っぱい味が舌に広がった瞬間、彼女は目を丸くした。
「おいしい……」
その一言を聞いた木苺の枝は、わずかに揺れた。
まるで喜びを伝えるように。

それから茜は、折に触れて木苺の茂みを訪れるようになった。
宿題を抱えてやって来ては石垣に腰かけ、ノートを開きながら実をつまむ。
涙を流した日は、赤い実が慰めのように甘く感じられた。
木苺に語りかけることもあった。
「お父さんとお母さん、またケンカしてた。どうして仲良くできないんだろう」
木苺は答えることはできない。
ただ、枝いっぱいに実を揺らして彼女を見守った。

やがて秋が来て実がなくなると、茜は枝を撫でながら「春まで待ってるからね」と言った。
その言葉は木苺の根に深く染み渡った。
生まれて初めて「待っていてほしい」と頼まれたのだ。

冬を越し、雪解けの水を吸いながら、木苺はこれまで以上に力を振り絞った。
茜が戻ってきたときに喜んでくれるように、もっとたくさんの花を咲かせ、実を結ぼうと決めたのだ。

翌年の夏、茜は少し背が伸びて現れた。笑顔で「ただいま」と言い、枝いっぱいに実った木苺を見て歓声を上げた。
「すごい! 去年よりもいっぱい!」
その声は木苺にとって、陽射しよりも雨よりも大切な栄養だった。

数年のあいだ、茜は木苺の茂みに通い続けた。
思春期を迎えて悩みが増えても、ここに来れば心が軽くなった。
進路に迷ったときも、友人との関係に苦しんだときも、木苺はただ変わらずそこにあり続け、赤い実を差し出してくれた。

やがて茜は村を離れ、都会の学校へ進むことになった。
最後の日、木苺の前で彼女は小さな声で言った。
「ありがとう。あなたがいたから、わたし頑張れたんだよ」
涙でにじむ笑顔は、木苺の葉に光を宿した。

それから幾年。
畑跡はさらに荒れ、人影もまばらになった。
それでも木苺は茂り続けた。
遠くで暮らす茜の姿を想い、いつかまた帰ってくる日を待ち望みながら。

そしてある夏。
石垣の道を歩いてきたのは、成長した茜だった。
彼女の隣には、小さな手を握る子どもがいた。
「ほら、ここだよ。お母さんの大切な場所」
母の言葉に、子どもは赤い実をひとつ摘んで口に入れた。
「おいしい!」
その声に、木苺は全身を震わせた。
長年の願いが、静かに叶った瞬間だった。

木苺の物語は、誰かに必要とされる喜びと、それをつないでいく人の心の記憶にあった。
甘酸っぱい赤い実は、これからも小さな幸せの証として実り続けるだろう。