音の繭

面白い

大学進学を機に一人暮らしを始めた健太は、引っ越し荷物の中に父から譲り受けた古いヘッドフォンを入れていた。
黒い革が少し剥がれ、金属のフレームには細かな傷が走っている。
新品のような輝きはとうになかったが、耳を覆うと不思議と世界が静まり返り、音楽だけが澄んで届いた。

父は無口な人だった。子どもの頃、健太はよく部屋の隅で父がレコードを聴く姿を眺めていた。
大きな肩にすっぽりとはまったヘッドフォン、その表情は仕事で見せる険しさとは違い、柔らかかった。
幼い健太にとって、その横顔は「大人が一瞬だけ子どもに戻る」瞬間のように思えた。

大学生活が始まると、慣れない環境と勉強の忙しさに追われ、気づけば孤独を感じる日が増えていった。
友人と談笑することはあっても、夜部屋に戻ると心が冷えていく。
そんなとき、健太は机の引き出しからあのヘッドフォンを取り出した。
音楽を流すと、耳に広がるのは父が好んで聴いていた古いジャズ。
知らないはずの曲なのに、懐かしさが胸を締めつけた。

ある晩、アルバイト先で失敗をして落ち込んだ健太は、部屋に戻るなりそのヘッドフォンをかぶった。
スピーカーから流れるサックスの音色が、まるで誰かの声のように「大丈夫だ」と囁いてくれる。
目を閉じれば、父の背中が浮かんだ。
そこに会話はなくても、音が二人をつなげていた日々の記憶が蘇る。

そうして少しずつ、健太は自分でも曲を探し、聴き、時には鼻歌を口ずさむようになった。
ヘッドフォンの内側は、外の喧騒や不安を遮断し、自分を取り戻す小さな「繭」のようだった。
そこでは時間がゆっくりと流れ、心の奥底に沈んでいた感情が静かに解けていく。

秋の帰省で実家に戻ったとき、健太は父にそのヘッドフォンを手渡した。
「まだ使えるよ。音、すごくきれいだった」
父は驚いたように笑い、耳に当てて少しの間目を閉じた。
その姿は昔と変わらず、音楽の中で穏やかな表情をしていた。

「お前も、よく聴いたんだな」
その一言が、健太には何よりも温かかった。

翌日、父は新品のヘッドフォンを健太に渡した。
「古いのは俺がまた使う。お前には新しい相棒が必要だろう」
その声に、健太は胸の奥が熱くなるのを感じた。

都会へ戻る列車の中、健太は新しいヘッドフォンを耳に当てた。
音質は格段に良く、低音も高音もくっきりしている。
それでも、耳の奥に残るのはあの古いヘッドフォンが教えてくれた「音に包まれる安心感」だった。
音楽はただの娯楽ではなく、自分と誰かをつなぎ、孤独を優しく溶かしてくれるものなのだと知った。

そして健太は思う。
あの古びたヘッドフォンの中には、父と自分の記憶が幾層にも重なり、今も確かに響き続けているのだ、と。

――音は消えても、記憶は耳の奥に生き続ける。

それから健太は、ヘッドフォンをつけるたびに、音楽とともに父との静かな対話を繰り返すようになった。