秋の風が少し冷たさを帯びてきた頃、町の路地裏に金木犀の香りが漂い始める。
橙色の小さな花が塀越しにのぞくと、人々は立ち止まり、懐かしいものを胸いっぱいに吸い込む。
香りは記憶を呼び覚ます扉のようで、誰かにとっては子どもの頃の帰り道であり、誰かにとっては初恋の記憶でもあった。
この町に住む高校二年生の真理は、金木犀の香りがあまり好きではなかった。
どこか甘ったるく、強すぎるその匂いは、心の奥にしまっていた痛みを引きずり出すからだ。
幼い頃、真理は祖母の家の庭でよく遊んでいた。
祖母の庭には大きな金木犀があり、秋になると辺り一面が黄金色に染まり、風に乗って香りが遠くまで届いた。
その木の下で、祖母は真理に昔話を聞かせてくれたものだ。
「金木犀の花はね、すぐに散ってしまうけど、その香りはしばらく残るの。人の思い出も同じ。姿は消えても、心に香りが残るのよ」
祖母はそう言って笑った。
しかし真理が十歳の時、祖母は突然の病で旅立ってしまった。
葬儀の日も、町じゅうに金木犀が香っていた。
以来、真理にとってその匂いは喪失を思い出させるものとなり、胸を締め付けた。
それから年月が流れ、今年の秋もまた金木犀の季節が訪れた。
学校の帰り道、友人たちと別れた後、真理は何気なく遠回りをした。
ふと足を止めると、見覚えのある古い門の前に立っていた。
祖母の家だ。
今は誰も住んでおらず、庭も荒れていたが、大きな金木犀の木は変わらずそこに立っていた。
夕暮れの光の中、橙色の花びらがはらはらと舞い落ち、真理の肩に積もる。
その瞬間、胸の奥で固く閉ざしていたものが少し揺らいだ。
鼻をくすぐる香りは、ただ悲しみだけを運んでくるものではなく、祖母と過ごした温かな時間も一緒に運んできたのだ。
「……おばあちゃん」
思わず口にした声は、秋風に溶けていった。
真理はその木の下にしゃがみこみ、花びらを一枚拾った。
掌の上でそれは小さな光の粒のように見えた。
幼い頃、祖母が教えてくれたことを思い出す。
「姿は消えても、香りは残る」
もしかすると、祖母の存在も今もこの香りと共にここにあるのかもしれない。
そう思うと、金木犀の匂いはもう痛みだけではなくなった。
その日以来、真理は通学路を少し変え、毎日のように祖母の家の前を通るようになった。
金木犀の花はすぐに散り、やがて冬が来る。
それでも真理は、花のない枝を見上げて「また来年ね」と心の中でつぶやいた。
季節は巡り、春も夏も過ぎ、再び秋が訪れる。
真理は高校三年になり、進路に迷いながらも自分の未来を考え始めていた。
金木犀が再び花を咲かせる頃、真理はその木の下でそっと決意を口にした。
「私、保育士になりたい」
祖母がいつも語ってくれた物語のように、子どもたちに温かい時間を残してあげたい。
姿は消えても、心に香りのように残る思い出を与えたい。
そう思えたのは、あの木があったからだった。
橙色の花が風に揺れ、金色の雨のように降り注ぐ。
真理は目を閉じ、深く息を吸い込む。
その香りは、もう悲しみを呼ぶものではなく、新しい一歩を後押しする力となっていた。
金木犀の花はすぐに散る。
けれど、その香りは人の記憶に長く残り続ける。
真理にとってそれは、祖母から受け継いだ大切な約束のようなものだった。
――今年もまた、金木犀が町を満たしている。