喫茶店「ミモザ」は、小さな駅前の路地にある。
木製のドアを押して入ると、いつもほんのり甘い香りが漂っている。
その香りの源は、店主の遥(はるか)が毎朝仕込むケーキだった。
彼女がとりわけ心を込めて作るのが「レアチーズケーキ」だ。
雪のように白く、口に入れればすっと溶け、酸味と甘みが静かに広がっていく。
底には砕いたビスケットが敷かれ、その香ばしさが爽やかな層を支えている。
常連客はそれを「ミモザの雪」と呼び、季節を問わず注文する。
遥がこのケーキを作り始めたのには、理由があった。
十年前、彼女は料理学校を卒業したばかりで、まだ自分の進む道に迷っていた。
そんな時、病床の母が「食欲がなくても食べられるものが欲しい」と言った。
母は甘いものが好きだったが、重たいクリームや焼き菓子は喉を通らなくなっていた。
悩んだ末、遥は冷やして固めるだけのレアチーズケーキを作った。
ヨーグルトを多めに入れて軽やかにし、甘さを抑えてレモンの香りを加えた。
母はひと口食べて、目を細めて微笑んだ。
その姿が忘れられず、遥は「いつか自分の店でこのケーキを出そう」と心に決めた。
母が亡くなったあとも、遥はケーキを作り続けた。
何度も試作を繰り返し、チーズの種類や砂糖の量を変え、ようやく「これだ」と思える味にたどり着いた。
そして三年前、「ミモザ」を開いたのだった。
ある雨の日、店に若い男性が入ってきた。
スーツ姿で、疲れた表情をしている。
メニューを眺めることなく「レアチーズケーキとコーヒーを」と頼んだ。
運ばれてきたケーキを口にした瞬間、彼はわずかに驚いたように目を見開いた。
「……懐かしい味だ」
彼はぽつりと呟き、ケーキを丁寧に食べ進めた。
会計のとき、彼は名刺を差し出し「近くの出版社で働いています」と自己紹介した。
そして、「また来てもいいですか」と少し照れたように笑った。
それから彼は頻繁に来店するようになった。
編集の仕事で忙しい彼は、休憩のひとときに必ずレアチーズケーキを注文した。
食べ終えると、机に広げた原稿に向かい、静かにペンを走らせる。
ある晩、閉店間際に残っていた彼に、遥は思い切って尋ねた。
「どうしてそんなに、このケーキが好きなんですか?」
彼は少し黙ったあと、遠くを見るような目をして話し始めた。
「子どもの頃、母がよく作ってくれたんです。病気で長く寝込んでいたのに、誕生日には必ず、冷蔵庫で冷やしたレアチーズケーキを出してくれた。その味を、もう一度食べたいと思っていたんです」
遥は胸が熱くなった。
彼の記憶と、自分の記憶が重なった気がした。
母を思い出すために作ったケーキが、別の誰かの母の記憶にもつながっていたのだ。
その日以来、二人はケーキを介して少しずつ心を通わせるようになった。
彼は新しい小説の構想を遥に話し、遥はケーキ作りの工夫を打ち明けた。
静かな店内で交わされる言葉は、どこか温かく、互いの孤独を和らげていった。
やがて彼の書いた小説が出版された。
表紙の片隅には小さな白いケーキが描かれている。
題名は「雪の記憶」。
あとがきにはこう記されていた。
――母が残してくれた味を、ある店で再び出会った。あの白い層に、僕は生きる力をもらった。
発売日の夜、彼は「ミモザ」に現れ、照れ隠しのようにケーキを二つ注文した。
「今日はお祝いだから」
そう言って笑う彼に、遥は思わず笑みを返した。
皿の上で白い層が静かに輝く。
甘さと酸味、そして記憶を抱いたそのケーキは、これからも誰かの心をひそかに支え続けていくだろう。