深い森の奥に、一頭の虎がいた。
名を呼ぶものは誰もいない。
ただ「王」とだけ、獣たちに呼ばれていた。
金色に輝く眼と、縞模様の毛並みは、夜の闇でもその存在を隠しきれないほどの威厳を放っていた。
王は力強く、誰よりも速く、そして何よりも誇り高かった。
獲物を狩るときも決して無駄な殺生をせず、食べられる分だけを仕留める。
弱きものを追い払うことはあっても、いたずらに傷つけることはない。
その姿は、森の掟そのものであり、獣たちは彼に恐れと同時に敬意を抱いていた。
だが、時代は変わり始めていた。
森の外から、人間たちが少しずつ足を踏み入れるようになった。
彼らは木を伐り、川をせき止め、道をつくった。
森は狭くなり、獲物も減っていった。
王は理解していた――自分が生きるための場所が少しずつ削られていることを。
ある日、森の端で銃声が響いた。
王が駆けつけると、一頭の鹿が倒れていた。
その傍らには、人間が数人、鉄の筒を抱えて立っていた。
王は怒りに燃え、吠えた。
その咆哮は森を震わせ、空気を裂いた。
人間たちは恐れをなして逃げていったが、王の胸の奥には、どうしようもない空虚が残った。
鹿はもう立ち上がらない。
彼らにとってはただの獲物でも、森にとっては大切な命だった。
その夜、王は月を見上げて考えた。
自分は森の王である。
しかし、森がなくなれば王もまた消える。
誇りを胸に抱いて生きてきたが、それだけで未来を守れるのだろうか。
数日後、王は若い虎と出会った。
彼はまだ未熟で、狩りも下手だった。
だが目の奥に強い光を宿していた。
「王よ、俺もいつかあなたのように強くなりたい」
王はしばらく彼を見つめ、それから静かにうなずいた。
「強さとは、牙や爪だけではない。己の生きる場所を守り抜く心こそ、真の強さだ」
それから王は、若き虎を連れて森を巡り歩いた。
獣道の在り処、川の流れ、獲物の習性――生きるための知恵を伝えていった。
人間の気配を感じれば、どう避けるかも教えた。
若い虎は学び、少しずつたくましくなっていった。
季節が巡り、冬の気配が近づく頃。
森の奥で再び銃声が響いた。王は駆け出した。
だが、その先に待っていたのは罠だった。
足元の鉄の輪が脚を絡め取り、鋭い痛みが走る。
王は咆哮を上げて暴れたが、重い鎖が彼を地に縛りつけた。
人間たちが近づいてくる。
その目には恐れではなく、利益の色が宿っていた。
王は最後の力を振り絞り、若き虎の名を呼ぶように心の中で吠えた――「生きよ」と。
その瞬間、茂みから若い虎が飛び出した。
鋭い牙で鎖を噛み切ろうとし、爪で地面を掘った。
人間たちは驚き、混乱し、やがて森の奥へ逃げ去った。
鎖は完全には外れなかったが、王は動けるほどに自由を得た。
血に濡れた脚を引きずりながらも、彼は立ち上がった。
月光が差し込む森の中で、王は若い虎に言った。
「よくやった。だが、これからはお前の時代だ。私は長くは生きられぬだろう。森を守り、誇りを絶やすな」
若い虎は涙のように鼻を震わせ、力強くうなずいた。
やがて王の姿は、森の奥へと消えていった。
その背中は弱っていたが、決して屈してはいなかった。
森の王として生き、誇りを後世に託した虎の物語は、風に乗って今も語り継がれている。
森には今も虎の咆哮が響く。
若き虎が王の意志を継ぎ、森を守り続けているのだ。