佐伯真琴は、どんなに忙しい日でも必ず一日の終わりに小さな陶器のカップにバニラアイスをよそう習慣を持っていた。
冷凍庫から取り出したばかりの固い白い塊を、少し力を入れてスプーンですくう。
その音や感触さえ、彼女にとっては安らぎの儀式だった。
仕事は広告代理店。締め切りに追われ、上司の指示に振り回され、心がざらつく日々が続く。
周囲の同僚はストレス解消に酒をあおったり、夜遅くまで騒いだりしているが、真琴にはそれは合わなかった。
ただ、夜の静かな部屋で、白くて甘いアイスを一口ずつ味わう――それが彼女の心を救っていた。
ある日、近所の商店街を歩いていると、新しくオープンしたアイスクリーム専門店が目に入った。
店先の木製の看板には「Gelato Bianco」と書かれている。
真琴は吸い寄せられるように扉を開けた。
店内には色とりどりのジェラートが並んでいた。
苺の赤、抹茶の緑、チョコの濃い茶色。
だが、真琴の目は自然と一番奥に置かれた、真っ白なバニラへ向かった。
「いらっしゃいませ。初めてですか?」
カウンターに立つ青年が声をかけてきた。
柔らかな笑顔と、白いシャツが店の雰囲気に溶け込んでいる。
「はい。……やっぱり、バニラをください」
「うちの一番人気です。ちょっと特別なんですよ」
差し出されたカップを受け取ると、ふわりと甘い香りが立ちのぼった。
口に含むと、冷たさの奥に濃厚な香りが広がり、思わず目を閉じた。
市販のものとは違う、まるで牛乳のやさしさとバニラビーンズの深みが溶け合っているような味わい。
「……すごく、おいしいです」
「ありがとうございます。バニラって、派手じゃないけど、どこか特別なんです。僕は子どもの頃から一番好きで」
青年は照れくさそうに笑った。
その表情に、真琴は少し胸を温められた。
自分だけが抱いてきたと思っていたバニラへの想いを、誰かが同じように大切にしている――それが不思議な安心感をくれた。
それから、真琴は週末になると必ず店を訪れ、バニラジェラートを注文した。
青年――店主の伊藤蓮と少しずつ会話を交わすようになり、仕事の疲れや小さな悩みを自然と話すようになっていった。
蓮は黙って聞き、ときどき笑わせてくれる。
ジェラートの白さに似た、穏やかな時間が流れるのだった。
ある雨の夕暮れ、真琴は仕事で大きな失敗をし、心が折れそうになっていた。
どうしても誰かに会いたくて、気づけば「Gelato Bianco」の扉を押していた。
「今日も……バニラ、ください」
涙をこらえながら言うと、蓮は少しも驚かず、静かにジェラートを差し出した。
「バニラはね、どんな味とも混ざり合えるんです。強い味も、優しい味も受け止めて。だから、一番シンプルに見えて、一番強いんですよ」
その言葉は真琴の胸に深くしみこんだ。
カップの中の白さが、ただの甘味ではなく、彼女を包み込む光のように思えた。
その夜、真琴は久しぶりに安らかな眠りについた。
翌朝、鏡の前で微笑む自分を見て、少しだけ未来が明るく見えた。
バニラアイスが好きな理由――それは「ただ甘いから」ではなかった。
真っ白なその味は、彼女にとって生きる力の象徴であり、大切な誰かとつながる合図でもあったのだ。
それからも真琴は、バニラアイスを食べるたびに思い出す。
ひとさじの冷たさの奥に潜むやさしさと、誰かの笑顔を。
バニラ色のひとときは、彼女の心を温め続けている。