陽介は三十代半ばの木工職人だった。
彼の工房には、削りかけの木片や、乾燥させた板、そして色とりどりの木のおもちゃが並んでいた。
積み木、車、動物の形をしたパズル……どれも角が丸く磨かれ、手にしたときに温かみを感じるよう工夫されている。
子どものころ、彼は祖父から手作りの木馬を贈られたことがある。
光沢のない素朴な木肌と、乗るときにかすかにきしむ音。
その小さな馬の背で、陽介は幾度となく想像の世界を駆け回った。
宇宙船になったり、竜の背になったり。
木馬は壊れてしまったが、その記憶は彼の胸に今も鮮やかに残っている。
成長するにつれて、世の中はプラスチックや電子玩具であふれていった。
光り、音を立て、派手に子どもを喜ばせるおもちゃ。
しかし、陽介の心を掴むのはやはり木の質感と香りだった。
大学を卒業したあと、彼は都会の会社勤めを辞め、地元に戻って木工を学び始めた。
工房を持った当初、彼は「木のおもちゃなんて売れるのか」と何度も疑問に思った。
時代は便利さと速さを求め、手仕事は取り残されていくように思えたからだ。
それでも一つひとつ丁寧に削り、磨き、色を塗りすぎないで仕上げると、不思議と心が落ち着いた。
木を触るたび、自分自身が子どもに戻るような感覚があった。
ある日、工房に小さな女の子が母親と一緒にやって来た。
まだ三歳ほどで、言葉もたどたどしい。
棚に並ぶおもちゃを見つめ、目をきらきらさせていた。
陽介が小さな車を手渡すと、女の子は両手で抱え、頬にすり寄せた。
母親は「この子、普段は飽きっぽいのに、木のおもちゃだけはずっと遊んでるんです」と微笑んだ。
その一言に、陽介の胸は熱くなった。
彼の作ったおもちゃは、派手さはない。
だが、木の香りや重み、そして指先に伝わる感触が子どもたちの想像力を引き出してくれるのだろう。
陽介はそのとき初めて、自分の仕事が誰かの時間を豊かにしているのだと実感した。
やがて口コミで評判が広がり、幼稚園や保育園からも注文が入るようになった。
積み木を積み上げて崩す笑い声、木の車を床に走らせる楽しげな音。
彼の耳には届かないが、確かに子どもたちの世界に自分の手仕事が息づいている。
ある年の秋祭り、陽介は町の広場で木工体験の屋台を開いた。
子どもたちが紙やすりで小さな木片を磨き、親が隣で見守る。
完成した笛やこまを嬉しそうに手にする姿を見ながら、陽介は思った。
――木のおもちゃはただの遊び道具じゃない。
親から子へ、そしてその子からさらに次の世代へと、記憶と温もりをつなぐ橋なのだ。
夕暮れ、屋台を片づけながらふと空を見上げると、茜色の雲が流れていた。
祖父から受け取った木馬の記憶がよみがえる。
もし祖父がいなければ、今の自分はいなかったかもしれない。
陽介は胸の奥で静かに誓った。
「この手で作る木のおもちゃを、もっと多くの子どもたちに届けよう」と。
木のぬくもりを伝えることが、彼にとっての生き方そのものになっていた。