森の奥深くに、ひときわ大きな蟻塚があった。
高さは子どもの背丈ほどもあり、まるで小さな城塞のように盛り上がっていた。
土の壁は幾度もの雨風を耐え抜いて固く、内部には無数の通路が走り、卵を守る部屋、食糧を蓄える倉庫、働き蟻たちの寝床が整然と分かれていた。
そこは小さな国そのものであり、ひとつの社会であった。
女王蟻は深い闇の奥で卵を産み続ける。
働き蟻は日々、葉を運び、幼虫の世話をし、巣を広げる。
兵隊蟻は顎を大きく広げ、外敵から塚を守る。
すべての役割が見事に噛み合い、蟻塚は生き物のように呼吸していた。
ある日、森に激しい嵐がやってきた。
大雨と風で木々が倒れ、地面は泥流と化した。
蟻塚の一部が崩れ、巣穴から水が流れ込む。
働き蟻たちは慌てず騒がず、互いに身体を繋げ、壊れた通路を塞ぎ、卵や幼虫を高い場所へと運んだ。
兵隊蟻は流れ込む小石や枝を顎で押し返し、必死に守った。
彼らにとってそれは「当たり前の日常」であり、「生き抜くための使命」であった。
夜が明け、嵐は去った。
蟻塚は半分ほど崩れてしまったが、中の命は守られていた。
女王も無事だった。
蟻たちは疲れ切っていたが、すぐに土を運び出し、巣を修復しはじめる。
その姿は諦めることを知らず、ただ前へ進む小さな軍隊のようであった。
やがて森に住む人間の少年が、その蟻塚に気づいた。
大きな倒木をどけたとき、目の前に現れた土の城を見て、少年は目を丸くした。
「こんなに大きな蟻の家があるのか」と驚き、膝をついて観察を始めた。
働き蟻が列を成して葉を運ぶ姿、互いの触角で情報を伝え合う様子、崩れた土を少しずつ積み直す忍耐強さ――少年は不思議な感動を覚えた。
次の日から、少年は毎日蟻塚を訪れるようになった。
水たまりを避けるように小枝で道を作ったり、蟻たちが運びやすいように細かくした葉を置いたりした。
もちろん蟻にとってはありがた迷惑かもしれない。
それでも、少年は小さな手助けをしながら、彼らの暮らしを見守るのが楽しかった。
季節が移り、森は緑を濃くし、やがて秋を迎えた。
蟻塚は見事に修復され、さらに高く広がっていた。
少年は「君たちの城は僕の家より立派だよ」と笑った。
蟻たちはもちろん答えない。
ただせっせと働き続けるだけだ。
しかし少年は、彼らが何かを語りかけてくるように感じていた。
「どんな嵐が来ても、私たちはまた立ち上がる」と。
やがて少年も成長し、森を離れる日が来た。
家族の都合で遠くへ引っ越すことになったのだ。
最後の日、少年は蟻塚の前に立ち、長い時間見つめていた。
「ありがとう。君たちに会えてよかった」――そう呟いて去っていった。
年月が流れ、森は変わり、人も変わった。
それでも蟻塚はそこにあった。
嵐が来れば崩れ、また立て直す。
その営みは途切れることなく続き、世代を超えて命をつなぐ。
誰かに見られていなくても、褒められなくても、蟻たちはただ働き続ける。
それが彼らの世界であり、誇りだった。
ある晩、月明かりの下で蟻塚は静かにそびえていた。
ふと吹いた風が土の匂いを運ぶ。
その匂いは、かつて少年が胸いっぱいに吸い込んだものと同じだった。
もし彼がどこか遠い街で夜空を見上げていたら、ふとその記憶を思い出したかもしれない。
小さな蟻塚と、そこで生き抜く無数の小さな命の物語を――。