整理の向こう側

面白い

佐伯美香は、小さなワンルームの部屋に住んでいる。
会社勤めの事務員で、特別派手な趣味があるわけではない。
けれども彼女には、人から不思議がられるほど熱中していることがある――収納だ。
棚に並ぶ書類はラベルの色で瞬時に区別でき、衣類は色と季節ごとに畳まれている。
調味料はサイズのそろった瓶に詰め替えられ、引き出しを開ければ中は仕切りで区切られて、無駄なスペースがない。
まるで展示用の模型のように整った部屋は、訪れる人を圧倒する。

友人の彩乃が遊びに来たときも、思わずため息を漏らした。
「ねえ美香、ここって本当に生活してる? ショールームみたい」
「ちゃんと住んでるよ。ほら、ここが私の一番好きな引き出し」
美香が嬉々として開けた引き出しには、文房具が色別に整列していた。
ペンは赤から紫へとグラデーションを描き、付箋やクリップまで同じ色調で並んでいる。
彩乃は笑いながら首を振った。
「……これはもう芸術だね。でも、なんでそこまで?」
「片づけると、心が静かになるの。物の位置が決まると、自分の居場所も決まる気がして」

美香にとって収納は、ただの習慣ではなかった。
幼い頃、家の中は常に散らかっていた。
母は忙しく、父は几帳面さを欠いていたから、食卓の上には新聞と洗濯物とお菓子の袋が同居していた。
居心地の悪さを感じながら育った美香は、せめて自分の机の上だけは整えようと決めた。
消しゴムのカスを集めては箱に入れ、鉛筆を長さ順に並べた。
小さな秩序を作ることで、心に安心をもたらしてきたのだ。

社会人になってからもその癖は続き、やがて趣味と呼べるほどに発展した。
休日には収納用品を探して雑貨店を巡り、新しい仕切り箱やスタッキングケースを試しては最適解を模索する。
その工程自体が楽しくて仕方がなかった。

ある日、会社の後輩・俊介が引っ越すことになり、手伝いを頼まれた。
段ボールに詰めるところから関わった美香は、自然と収納アドバイザーのような役割を果たした。
「書籍はサイズで分けると安定するよ。あと調味料は、このケースを使えば一目で分かる」
俊介は感心して、「美香さん、引っ越し業者より頼りになりますね」と笑った。

その言葉が、美香の胸に残った。
収納好きは自分だけの満足だと思っていたのに、誰かの役に立てるのだと気づいたからだ。

数週間後、彩乃からも連絡が入った。
「うちのリビング、物があふれて手に負えなくて……ちょっと助けてもらえない?」
美香は二つ返事で駆けつけた。
散乱する雑誌やおもちゃを一つ一つ分類し、不要なものと必要なものを分ける。
収納ボックスを提案し、彩乃が納得する形に整えていった。
数時間後、すっきりとした空間を見渡して、彩乃が目を潤ませた。
「ありがとう……部屋だけじゃなくて、気持ちまで軽くなったみたい」

そのとき、美香ははっきりと悟った。
収納は単なる趣味ではない、人の心を解きほぐす力を持っているのだと。

それから、美香は少しずつ活動の範囲を広げていった。
会社の同僚の引っ越しを手伝い、知人の家庭で片づけをサポートした。
口コミで広がり、週末の予定は次々に埋まっていった。

もちろん、完璧を求めすぎて相手を縛らないように気をつけた。
自分にとって快適な「整然」は、他人にとって必ずしも同じではない。
大切なのは、相手の生活が楽になることだと学んだからだ。

夜、整った自室の机に座りながら、美香は一日の出来事を思い返す。
人の暮らしに触れ、その中で役に立てる自分を思うと、胸の奥が温かくなる。
「収納は、私の言葉なんだな」
静かにつぶやくと、机の上のランプが優しく光った。

整えることは、支配することではない。
秩序を通じて、誰かに安らぎをもたらすこと。
そう信じる美香の部屋には、これからも心地よい静けさが満ちていくのだろう。