夏の初め、真白なユリが庭先に並ぶ季節になると、里奈は決まって足を止めた。
風に乗って漂ってくる濃厚で甘やかな香りは、彼女の心を遠い昔へと引き戻す。
幼い頃、里奈の祖母は庭一面にユリを植えていた。
祖母の背丈ほどに伸びた茎の先に大きな花が咲くと、家中がその香りに包まれた。
幼い里奈はその香りを「おばあちゃんの匂い」と呼んで、花のそばで昼寝をしたり、花びらを触っては叱られたりした。
祖母はよく笑いながら、「ユリはね、神様に一番近い花なんだよ」と言っていた。
やがて祖母は病に倒れ、里奈が中学生になる前にこの世を去った。
最後に見舞った日の病室にも、一本の白ユリが花瓶に生けられていた。
その香りを吸い込んだとき、里奈の目から涙が溢れ出したのを今も覚えている。
大人になった里奈は都会に出て、事務職として忙しい日々を送っていた。
朝から晩までパソコンとにらめっこし、帰宅すれば疲れ果てて眠るだけ。
花を眺める余裕もなく、香りに心を震わせる瞬間も少なくなっていた。
そんなある日、取引先の帰り道で偶然小さな花屋を見つけた。
無造作に並べられた鉢植えの間に、純白のカサブランカが凛と咲いていた。
胸の奥に眠っていた記憶が一気に蘇り、里奈は衝動的に花を買ってしまった。
自宅のリビングに花瓶を置くと、部屋いっぱいに甘やかな香りが広がった。
仕事でささくれた心が静かに癒されていくようだった。
花の前に座り、深く息を吸い込むと、まるで祖母が「よく頑張ってるね」と声をかけてくれているように思えた。
それから里奈は、毎月の給料日にユリを一輪だけ買うようになった。
生活に余裕があるわけではないが、その小さな贅沢が心の支えになっていった。
花がある日々は、心に灯りがともるようで、部屋の空気さえ柔らかくなるのを感じた。
ある年の夏、里奈は体調を崩して休職することになった。
無理を重ねていた心身は限界を迎えていたのだ。
家に閉じこもり、気力も萎えていたある日、玄関のチャイムが鳴った。
近所に住む小学生の女の子が、庭で咲いたユリを抱えて立っていた。
「これ、おすそわけです。お姉さん、元気ないみたいだから」
差し出された花から、懐かしい香りがふわりと漂った。
その瞬間、胸の奥に温かなものが広がった。
自分が支えられていることを、香りが教えてくれたのだ。
里奈は少しずつ外に出るようになり、季節ごとの花を探して散歩する習慣がついた。
だが、やはりユリに出会うと特別な気持ちになる。
花屋の店先でユリを見つけると、祖母や幼い日の記憶、そして支えてくれる人たちの存在を思い出す。
今、里奈の小さなベランダには鉢植えのユリが並んでいる。
夕暮れの風が吹くたびに、香りが部屋へと流れ込み、彼女を包み込む。
里奈はそっと目を閉じ、香りを吸い込んだ。
――ユリの花の香りは、過去と現在を結び、孤独を優しく溶かしてくれる。
これからも自分は、この香りとともに生きていくのだろう。