春の風が街をやさしく撫でる午後、直樹はガレージのシャッターを開けた。
そこには、鮮やかな赤のオープンカーが眠っている。
十年前、父と一緒に中古で買った車だった。
父は数年前に亡くなったが、この車だけは手放せずにいた。
エンジンをかけると、低い音が胸の奥に響いた。
屋根を開けると、世界は一瞬で広がる。
直樹はシートに深く腰を沈め、アクセルを踏んだ。
オープンカーに乗ると、いつも時間が逆戻りするように感じる。
父と出かけた初めてのドライブを思い出すからだ。
海沿いの道を走りながら、父は笑って言った。
「直樹、風はな、目に見えないけど確かに触れられるんだ。車がなければ感じられない風もある」
その言葉が、直樹の心に強く残っていた。
しかし最近は、仕事に追われる毎日で、この車に触れる機会も減っていた。
オープンカーに乗ることが、現実からの逃避に思えてしまうのが怖かったのだ。
それでも今日は違った。
なぜか父に背中を押されるように、ハンドルを握っていた。
郊外の道を走り抜けると、風は春の花の匂いを運んでくる。
髪が乱れる感覚さえも心地よい。
信号で停まったとき、隣にいた小さな子どもが羨ましそうに車を見つめ、母親の袖を引っ張った。
その目の輝きに、直樹は思わず笑みを返した。
父も、きっとこんな風に誰かの心を動かす瞬間を楽しんでいたのだろう。
走るほどに、胸の奥に重く沈んでいたものが少しずつ溶けていく。
都会のビル群を抜け、やがて山道へと入る。
エンジン音が谷間にこだまし、鳥たちが驚いて飛び立つ。
頂上付近の展望台に車を停めると、眼下には街と海が広がっていた。
屋根を閉じずにそのまま座席に身を預ける。
空は澄んで、白い雲がゆっくり流れていた。
「父さん……まだ隣にいる気がするよ」
口に出すと、不思議と涙は出なかった。
ただ胸の奥が熱くなる。
父と過ごした記憶が、風に混じって蘇る。
笑い声、真剣な横顔、そしてハンドルを握る大きな手。
直樹はふと気づく。
オープンカーはただの車ではない。
風を感じ、景色を全身で受け止めるための道具だ。
そしてそれは父が残してくれた「生きる実感」そのものだった。
夕陽が沈みかける頃、再びエンジンをかけた。
帰り道、車体に当たる風は少し冷たくなっていたが、心は温かかった。
直樹は思う。
――この車と一緒に、もっと遠くまで行こう。
父が見せてくれた風景の続きを、自分の目で確かめるために。
街の灯りが近づくにつれ、胸に新しい鼓動が生まれる。
オープンカーの中で抱きしめた風が、これからの道を照らしてくれるように感じられた。