鏡の中の声

ホラー

夜、大学の課題を片付けていた翔太は、机の上の鏡に視線を落とした。
それは小さな手鏡で、幼い頃からなぜか手放せずに持ち歩いているものだ。
枠は黒ずみ、銀色の反射面には微かに曇りがある。
けれど鏡を見ると不思議と落ち着くので、翔太は部屋の片隅に立てかけていた。

その夜、ふと気配を感じて顔を上げると、鏡の中に自分が映っていなかった。
「……え?」
瞬きをすると、そこにはいつも通りの自分が映っている。
気のせいだと首を振り、また課題に向き直った。

だが、その夜から奇妙なことが続いた。
深夜になると、机に置いた鏡からかすかな声が聞こえる。
低く、掠れた声で、言葉は判然としない。
ただ、こちらを呼んでいるように思えてならなかった。

翔太は最初、疲労や幻聴だと考えた。
しかし数日経つと、その声ははっきりと形を持ちはじめた。
「――かえして」
短く、囁くように。

翔太は鳥肌を覚えながらも、鏡を手に取った。
「誰だ?」
もちろん返事はない。
だが鏡の表面に、わずかに影のようなものが揺れた気がした。

翌日、翔太は鏡について母に尋ねた。
母は少し眉を寄せて、「その鏡ね……」と口ごもった。
「昔、親戚の家の片付けを手伝ったときに見つけたのよ。あなたが妙に気に入って欲しがったから、持ってきたけど……。あの家、事故で住んでいた人が亡くなったって聞いたわ」
背筋が冷たくなった。

その夜、再び鏡の声は翔太を呼んだ。
「かえして……かえして……」
心臓が激しく脈打ち、汗がにじむ。
「……どこに、返せばいいんだ」
思わず問い返すと、鏡の奥に“別の部屋”が映った。
見知らぬ畳の部屋、黒ずんだ天井。
そして、白い着物を着た女がうつむいて座っている。

翔太は鏡を取り落とした。
だが鏡は割れなかった。
床に転がったその表面から、女がゆっくりと顔を上げ、真っ黒な瞳で翔太を見据えた。

声はもう耳ではなく、頭の中に直接響いてきた。
「……そこは、わたしの場所」
翔太は必死に鏡をタオルで包み、押し入れの奥へ隠した。
だが、囁きはやまなかった。
夜ごと夢の中で女が現れ、冷たい手で肩を掴む。
目が覚めれば、必ず鏡のある押し入れの戸がわずかに開いている。

限界を迎えた翔太は、深夜の街を駆け、近所の神社に向かった。
境内にたどり着くと、鏡を取り出し、石畳に叩きつけた。
カラン、と甲高い音を立てて鏡は粉々に砕け散った。

翔太はその場にへたり込み、震える息を吐いた。
これで終わった――そう思った。

しかし翌朝。
机の上に、あの黒ずんだ手鏡が静かに立てかけられていた。
表面には、笑う女の顔が映っていた。