川沿いにある小さな町に、悠真という青年が暮らしていた。
彼は昔から人付き合いが得意ではなく、どこか影を抱えたような雰囲気を纏っていた。
そんな彼が唯一心を許せる存在が「ラズベリー」だった。
赤く小さな果実は、彼にとってただの食べ物ではなく、心の奥に結びついた大切な記憶の象徴だった。
幼い頃、祖母の家の裏庭にはラズベリーの茂みが広がっていた。
夏が近づくと鮮やかな赤い実が揺れ、甘酸っぱい香りを漂わせる。
祖母は毎朝、摘んだ実をジャムにしてトーストに塗ってくれた。
少し焦げ目のついたパンに、宝石のような赤が映えて、ひと口かじると酸味がじんわり広がり、次に優しい甘さが追いかけてくる。
その味が、悠真にとっての「幸せの形」だった。
しかし祖母が亡くなった時、庭のラズベリーの茂みは手入れする人を失い、枯れてしまった。
幼い彼は、もうあの味に出会えないと泣きじゃくった。
それでも年月は流れ、成長するにつれラズベリーを口にするたび、心に祖母の笑顔が蘇るようになった。
以来、彼にとってラズベリーは「失った大切なものを繋ぎとめる鍵」となったのだ。
ある夏の日、悠真は町の図書館の横にある小さなカフェに足を運んだ。
カウンターには「自家製ラズベリーチーズケーキ」と書かれた黒板が立て掛けられている。
吸い寄せられるように店に入ると、カウンターの奥から女性の店主が明るい声で迎えた。
彼女の名は美咲。
小柄で、目尻に笑い皺を浮かべる人懐っこい雰囲気の女性だった。
「ラズベリー、お好きですか?」
ケーキを注文すると、美咲はにこやかに尋ねてきた。
「はい、小さい頃からずっと」
そう答えると、彼女は嬉しそうに目を輝かせた。
出てきたケーキは、白いクリームチーズの上に鮮やかなラズベリーソースが流れるようにかけられ、上には小粒の果実が飾られていた。
ひと口食べると、酸味と甘みのバランスが絶妙で、チーズの濃厚さと絡み合う。
悠真は一瞬、祖母のジャムを思い出して胸が締め付けられた。
けれどその味は懐かしさに留まらず、新しい温もりを添えてくれた。
「小さい頃、おばあちゃんがよくジャムを作ってくれたんです」
思わず口にすると、美咲は「素敵ですね」と微笑んだ。
「実はこのケーキも、私のおばあちゃんのレシピなんです。子どもの頃から作り方を教わって、大人になって自分のお店で出せるようになったんですよ」
偶然の一致に、悠真は心の奥に灯がともるような感覚を覚えた。
自分と同じように、祖母との思い出を果実に託している人がここにいる。
それだけで、彼は少しだけ自分の世界が広がったように感じた。
その日を境に、悠真はカフェに通うようになった。
読書の合間にケーキを食べたり、ラズベリーティーを飲みながら美咲と会話を交わしたり。
二人の間に、ゆっくりとした時間が積み重なっていった。
美咲は新しいラズベリーメニューを試すたびに彼に味見を頼み、悠真は真剣に感想を伝えた。
彼にとって、ラズベリーは過去の記憶を抱きしめるものだったが、彼女と出会ってからは未来を彩る果実にもなりつつあった。
やがて秋が訪れ、町の収穫祭が開かれた。
商店街の広場には露店が並び、にぎやかな笑い声が響く。
美咲はカフェの看板メニューとして「ラズベリータルト」を出店することになり、悠真も手伝いを申し出た。
彼は不器用ながらも一生懸命に箱詰めをし、来客に声をかける。
その姿を見て、美咲は「ありがとう」と何度も笑顔を向けた。
祭りの終盤、タルトは完売した。
夜空には花火が打ち上がり、赤や緑の光が川面に映える。
悠真は屋台の片付けを手伝いながら、美咲にそっと告げた。
「僕にとって、ラズベリーは過去の思い出を繋ぐものだった。でも、美咲さんと出会ってからは、これからの時間を一緒に彩るものになったんです」
美咲は少し驚いたように彼を見つめ、やがて頬を赤らめて言った。
「それなら、これからも一緒にラズベリーを大事にしていきましょう」
その瞬間、夜空にひときわ大きな花火が開いた。
赤い光が二人を照らし、まるで熟れたラズベリーのように鮮やかだった。
悠真の胸の奥にあった寂しさは、少しずつ温かい未来へと溶けていった。