豚肉好きの物語

食べ物

浩一は、自他ともに認める「豚肉好き」だった。
牛肉よりも、鶏肉よりも、魚よりも、とにかく豚肉を愛していた。
トンカツのサクサク感とジューシーな甘み、角煮のとろけるような食感、しょうが焼きの香ばしい匂い……どんな料理に姿を変えても、豚肉は彼の心を掴んで離さなかった。

小学生の頃、給食の献立に「豚汁」と書かれているだけで一日が輝いた。
高校時代、弁当箱の蓋を開けて母の作った豚の生姜焼きが並んでいるのを見て、疲れた部活の練習にも気合が入った。
社会人になっても、残業帰りに立ち寄る居酒屋で頼むのは、結局「厚切り豚の炙り」だった。

周囲はそんな浩一を「豚肉人間」とからかうが、彼は笑って受け流した。
むしろ「そうだ、俺は豚肉人間だ」と胸を張った。

ある日、浩一は近所の精肉店「松村肉店」の店先で足を止めた。
年季の入った暖簾、冷蔵ショーケースに並ぶ艶やかな肉。
中から顔を出したのは、白髪まじりの頑固そうな店主・松村だった。
「おう、兄ちゃん。今日は何にする?」
「トンカツ用のロース、厚めに切ってもらえますか?」
そう頼むと、松村はにやりと笑い、包丁を滑らせた。
「わかってるなあ、やっぱり豚は厚めに限る。薄っぺらいのは肉が泣く」
その言葉に、浩一は一瞬で心を掴まれた。

それから浩一は、ほぼ毎日のように松村肉店へ通った。
松村は口数こそ少なかったが、豚肉の部位や切り方、調理法について熱心に語ってくれた。
豚バラは煮込むと脂の旨味が染み出し、肩ロースは焼いても柔らかく、ミンチは脂と赤身の割合でまったく味が変わる。
浩一はそのたびにメモを取り、自宅で試した。

そして次第に「食べるだけの豚肉好き」から「豚肉を研究する人」へと変わっていった。
週末には友人を呼び、豚肉料理をふるまった。
トンテキ、生姜焼き、スペアリブ、さらには自作ソーセージまで。
友人たちは「お前、もう肉屋開けるんじゃないか」と笑った。

だが、浩一には一つの夢が芽生えていた。
「いつか、自分の豚肉料理専門の店を開きたい」

もちろん簡単ではなかった。料理人としての修行もなければ、経営の知識もない。
ただ「豚肉が好き」というだけだ。
しかし、松村が言った一言が背中を押した。
「兄ちゃん、豚を愛してるなら大丈夫だ。肉は愛した分だけ、旨くなる」

三十歳を迎える頃、浩一はついに小さな店を借りた。
名前はシンプルに「豚日和」。
看板メニューは松村直伝の厚切りロースカツ、そして浩一オリジナルの「とろとろ角煮カレー」。
オープン初日、客はほとんど来なかった。
それでも浩一は落ち込まず、ひたすら鍋を火にかけ、肉を切り、油を温めた。
香りが路地に漂い、次第に足を止める人が増えた。
口コミが広がり、一か月もすると満席の日が続くようになった。

ある夜、店のドアを開けて入ってきたのは松村だった。
「よう、繁盛してるじゃねえか」
「松村さん! 来てくださったんですね」
「まあな。……ロースカツ、一つ」
浩一は少し緊張しながら揚げた。
黄金色に上がったカツを切ると、肉汁があふれ出す。
松村は一口食べ、黙ったままゆっくり頷いた。
「うん。……兄ちゃん、もう立派な豚肉人間だ」
その言葉に、浩一の目頭は熱くなった。

店は地域の人気店となり、常連客で賑わうようになった。
家族連れも、仕事帰りのサラリーマンも、みんな笑顔で豚肉を頬張る。
その姿を見るたび、浩一は「豚肉が好きでよかった」と心から思った。

人生の中で何を愛するかは人それぞれだ。
だが、浩一にとっての愛は間違いなく「豚肉」だった。
その愛が、彼自身の人生を支え、人と人をつなぎ、温かい輪を作り出していた。