モロヘイヤの緑に包まれて

食べ物

夏の朝、畑に立つと、独特の青々とした香りが風に乗って鼻をくすぐった。
真っ直ぐ伸びた茎に、小さく艶やかな葉をたたえたモロヘイヤが、陽を受けて光っている。
「今年もよく育ったなぁ」
そうつぶやいたのは、定年後に農業を始めた和夫だった。
元々は会社勤め一筋で、土いじりには縁がなかったが、妻が好きだった健康野菜を育ててみようと始めたのがきっかけだった。
その中でも、とりわけ妻が口にしていたのが「モロヘイヤ」だった。

彼女はよく言っていた。
「モロヘイヤってね、“王様の野菜”って呼ばれるくらい栄養が豊富なんだって。スープにすると美味しいのよ」
結婚して間もないころ、エジプト料理の本を買ってきて、慣れない手つきでスープを作ってくれた日のことを和夫は思い出す。
香草の強い香りに驚きながらも、滋味深い味わいが舌に残って忘れられなかった。

だが、その妻は数年前に病で亡くなった。
ぽっかりと心に空いた穴をどうしていいかわからず、気づけば庭の隅に置いたプランターを眺めていた。
そこに芽吹いた小さな緑が、彼にもう一度前を向かせた。モロヘイヤだった。

最初は小さな家庭菜園だったが、やがて畑を借り、本格的に育てるようになった。
汗をかき、土を掘り返し、雑草を抜き、虫を追い払う。
会社勤めの頃には想像もしなかった毎日だった。

ある日、収穫したモロヘイヤを近所の子どもたちに分けてやった。
すると母親たちが驚いた顔で言った。
「こんなに新鮮なモロヘイヤ、スーパーではなかなか買えないのよ。子どもに食べさせたいわ」
そこから口コミで評判が広まり、和夫のモロヘイヤは地域の直売所でも人気になった。

けれど、和夫の胸にある思いは一つだった。
――妻にもう一度食べてもらいたい。
「元気になる野菜なのに、君に間に合わなかったな」
畑で風にそよぐ葉を見ながら、何度もつぶやいた。

そんなある夏、町の小学校から声がかかった。
「子どもたちに野菜を教える授業をしてほしい」という依頼だった。
最初は気が進まなかったが、妻が教師をしていたことを思い出し、引き受けることにした。

授業の日、子どもたちにモロヘイヤを見せると、「これなに?」「ほうれん草?」と口々に言った。
和夫は笑いながら、「これはモロヘイヤ、エジプト生まれの元気な野菜だよ」と説明した。
実際に葉をちぎって湯がき、細かく刻んでスープにすると、子どもたちは最初は恐る恐る口をつけた。
しかし、一口飲んだ瞬間、目を丸くした。
「おいしい!」「なんか元気になりそう!」
その言葉に、和夫の胸に温かいものが広がった。
まるで、妻がそばで微笑んでいるように思えた。

それからも、和夫は子どもたちに野菜を教え続けた。
モロヘイヤの生命力を伝えるたび、自分も力をもらっている気がした。

夏の盛り、畑に立つと、一面の緑が太陽を浴びて輝いている。
汗を拭いながら和夫は空を仰いだ。
「君のおかげで、俺はまだ生きていけるよ」
そうつぶやく声を、蝉の鳴き声が包み込んだ。

モロヘイヤの葉は、今年も変わらず風に揺れていた。