思い出のハヤシライス

食べ物

「あの味、もう一度食べたいな」

ふと、そんな言葉が口をついて出たのは、引っ越しの段ボールを整理しているときだった。
大学を卒業して、東京の会社に就職が決まり、ひとり暮らしを始めたばかりの春。
段ボールの中には、懐かしい写真や、学生時代のノート、そして一冊の古びたレシピ帳が入っていた。

ページをめくると、子どもの頃に母がよく作ってくれた「ハヤシライス」のレシピが目に飛び込んできた。

──牛肉を薄切りにして、玉ねぎと一緒に炒めて。
赤ワインとトマトペーストで煮込むのが、うちの定番だった。

母のハヤシライスは、市販のルーを使わない。
最初はそれがちょっと物足りない気がしていたけれど、大人になってから、あのやさしい酸味とコクのある味が、どれほど丁寧に作られていたかに気づいた。

東京での生活は、毎日が慌ただしい。
コンビニ弁当やカップ麺ばかりで、手作りの食事なんて遠ざかっていた。
でもこのレシピ帳を見ていると、なんだか胸の奥がじんわり温かくなる。

「よし、作ってみようかな」

買い物に出かけ、レシピ通りに材料を揃える。
牛肉、玉ねぎ、マッシュルーム、トマトペースト、赤ワイン。
そして、バターと小麦粉でルーも自分で作る。
手間はかかるけれど、それがいい。
母の味に少しでも近づけたら、それだけでうれしかった。

玉ねぎを炒めながら、あの台所の光景を思い出す。
母が木べらを持ちながら、「もう少し色がつくまで炒めてね」と言っていたっけ。
牛肉の香ばしい匂いが立ち上ると、空腹がじわじわと刺激されてくる。

じっくり煮込んで、最後に塩とこしょうで味を調える。
ごはんをよそって、その上からたっぷりとハヤシソースをかける。
真っ白なごはんと、赤茶色のとろりとしたルー。
そのコントラストが、なんとも食欲をそそる。

一口食べて、思わず笑ってしまった。

「うわ、懐かしい……」

完璧には再現できなかったけれど、十分だった。
口の中に広がる酸味と甘み、そして深いコク。
それが、遠く離れた実家と、母のぬくもりを思い出させてくれた。

その夜、久しぶりに母に電話をした。

「お母さん、ハヤシライス作ったよ。レシピ帳見ながらさ。あの味、やっぱり忘れられないね」

「まぁ、うれしいわね。どう?うまくできた?」

「うん、ちょっと薄味だったけど。でも、あの頃の気持ち、思い出した」

電話越しに、母の笑い声が聞こえた。

「それなら、上出来よ」

ハヤシライスは、ただの料理じゃなかった。
思い出であり、絆であり、そしてこれからも続いていく“味”だった。
これから疲れた日も、寂しくなった日も、きっとまたこのレシピを開くだろう。
そして、またあの味に癒されるのだ。