ヒノキの香りに包まれて

面白い

佐伯真理子は、小さな町の図書館で働く司書だった。
人と話すことも嫌いではなかったが、彼女が心から安らげるのは、本の並ぶ静かな空間と、ほんのりとした木の香りに包まれているときだった。
特に好きなのは、ヒノキの香りだった。

そのきっかけは、子どもの頃に父と一緒に行った温泉旅館である。
古い木造の浴場に足を踏み入れた瞬間、湯気とともに立ちのぼるヒノキの匂いに心を奪われた。
温かくて、澄んでいて、それでいて懐かしい。
その香りを胸いっぱいに吸い込むと、不思議と心が軽くなるのを感じたのだ。

以来、彼女にとってヒノキは「帰る場所」になった。
大学進学で都会に出ても、アパートの部屋には必ずヒノキのアロマオイルを置いた。
新しい土地に馴染めず、孤独を感じた夜でも、灯りを落として小さなアロマディフューザーを稼働させると、あの旅館で感じた安らぎが蘇り、心が落ち着いた。

そんな真理子が図書館に就職して三年目、彼女にとって大きな転機が訪れる。
図書館の老朽化が進み、建て替えの話が持ち上がったのだ。
新しい建物の設計に関して、利用者や職員から意見を募る会が開かれることになり、真理子も参加した。

そこで彼女が提案したのは「木の香りを感じられる図書館」だった。
冷たいコンクリートや無機質な空間ではなく、木の温もりと香りが利用者を迎える空間を作りたい、と。
特に、入口や読書スペースにはヒノキを使ってほしいと熱心に語った。

当初は一部の人に「香りなんて贅沢じゃないか」と笑われもした。
しかし、意見を真摯に伝えるうちに、建築士や町の人々もその思いに共感し始めた。
やがて「木をふんだんに使った図書館」という方向性が固まり、実際に工事が進んでいった。

完成した新しい図書館は、町の人々に驚きと喜びを与えた。
扉を開けるとふわりと漂うヒノキの香り。広い窓から差し込む光に照らされて、白木の壁や本棚が温かく輝く。
訪れる人々は「ここに来ると落ち着く」「本を読む時間が前より好きになった」と口々に語った。

真理子はそんな声を聞くたびに胸がいっぱいになった。
ヒノキの香りは、自分だけの特別な記憶ではなく、人と人をつなぐ力を持っているのだと実感したのだ。

ある日、カウンターに若い父親がやってきた。
小さな娘の手を引いていて、借りたい絵本を差し出しながら言った。
「ここに来ると娘がすごく嬉しそうにするんです。木の匂いが“お家みたい”だって」

真理子はその言葉に微笑みながら、胸の奥でじんわりと温かさを感じた。
あの日、自分が旅館で受け取った安心を、今度はこの場所を通して誰かに渡すことができている。

夜、図書館が閉館したあと、真理子は一人で読書スペースの椅子に腰かけ、深く息を吸い込んだ。
柔らかいヒノキの香りが肺に広がり、心が静かに満たされていく。
「やっぱり、この香りが好き」

それはもう単なる好みではなく、彼女にとって人生の指針のようなものだった。
どんなに時代が変わっても、人の心を支えるものは、こうした小さな温もりなのかもしれない――。

真理子は窓の外に広がる夜空を見上げながら、明日もまたこの香りに包まれて働ける幸せをかみしめていた。