大海原を悠々と泳ぐ一頭のクジラがいた。
名を「ナナ」と呼ぶことにしよう。
彼女はまだ若く、仲間と比べれば身体も小さい。
それでも、彼女の心には果てしない冒険心が燃えていた。
ナナの群れは、春になると南の暖かい海から北の冷たい海へと移動する。
そこで豊富な餌を求め、また長い旅を繰り返すのだ。
クジラにとって、それは命の循環であり、未来を繋ぐための大切な営みだった。
けれどナナには、旅の道すがら胸に残る疑問があった。
「なぜ、わたしたちは毎年同じ道を泳ぐのだろう?」
群れの長老に尋ねても、答えは決まっている。
「そういうものだからだ。海は昔からそう教えてきた」
だがナナは納得できなかった。
海は広く、空のように無限に続いている。
そこに未知の世界が広がっているのに、ただ同じ道を辿るだけでよいのだろうか。
ある夜、月明かりが波間に揺れていた。
群れが静かに眠る中、ナナは決心した。
北への旅の途中、少しだけ道を外れてみようと。
翌朝、群れから離れ、彼女は東の海へ向かった。
最初は不安で胸が高鳴ったが、潮の流れに身を任せると、知らない魚たちや、海底に広がる珊瑚の森が目に飛び込んできた。
赤や黄色に光る小さな魚たちが、ナナの周りを舞い踊るように泳ぎ、彼女を歓迎するかのようだった。
しかし、旅は楽しいばかりではなかった。
人間が捨てた網が海中に漂い、ナナはその一部に絡まりそうになった。
鋭い縄の切れ端がヒレをかすめ、痛みを覚えた瞬間、彼女は初めて「海が傷ついている」ことを知った。
広い海は無限に見えても、人間の行いが確実に痕跡を残しているのだ。
それでも進むと、やがて深い海溝に辿り着いた。
陽の光が届かない闇の中で、発光するクラゲや魚が幻想的に輝いている。
ナナは思わず歌声を響かせた。
低く、深い音が水に溶け、遠いどこかまで届いていく。
その歌に応えるように、闇の奥から別のクジラの声が返ってきた。
「君は、誰だ?」
姿を現したのは、別の群れの年老いたクジラだった。
白い傷跡が身体に刻まれているが、その目は優しかった。
「わたしはナナ。旅の途中で道を外れてきたの」
「勇気があるな。多くのクジラは決められた道から離れようとはしない」
老クジラはゆっくり語った。
自分も若いころ、海をさまよい、数多くの景色を見てきたこと。
だが人間の船や音に怯え、仲間を失ったこともあると。
「それでも、世界は広く、美しい。君がそれを知ったなら、群れに戻って伝えるといい。海は変わりゆくが、希望もまた波のように広がっていく」
ナナは深く頷いた。
未知を求める心は、間違いではなかったのだ。
再び北の海を目指したとき、ナナは傷跡を抱えながらも力強く泳いでいた。
群れと合流すると、仲間たちは驚き、そして安堵の声を上げた。
彼女の目は以前よりも深く、確かな光を宿していたからだ。
その後、ナナは群れの中で語り手となった。
珊瑚の森の鮮やかさ、闇に輝く生き物たち、そして海を蝕む人間の影。
彼女の物語を聞いた若いクジラたちの胸には、新しい問いが芽生えた。
「もっと広い海を見てみたい」
「わたしたちにもできることがあるのかもしれない」
波の音に混じって、クジラたちの歌声が重なっていく。
その響きは、遠い水平線の彼方へと広がり、人間の耳には届かなくても、確かに海を震わせていた。
やがてナナは大きく成長し、次の世代を連れて再び旅に出る。
その胸には、あの夜に決めた小さな冒険の記憶が今も生き続けている。
――海は広い。
だからこそ、歌い続けよう。
自分の声が、未来を照らす光になると信じて。