担々麺に導かれて

食べ物

昼休みのチャイムが鳴ると同時に、佐藤悠斗はデスクに書類を置き、誰よりも早く会社を飛び出した。
行き先は決まっている。オフィスから歩いて七分ほどの小さな中華料理店「紅龍園」だ。
同僚からは「毎日よく飽きないね」とからかわれるが、悠斗は笑って答える。
「担々麺は、俺にとっての栄養ドリンクなんだよ」。

彼がこの店の担々麺に出会ったのは、ちょうど三年前。
仕事で大きな失敗をした日、心が折れそうになりながらふらりと入ったのが「紅龍園」だった。
暖簾をくぐると、少し年配の店主が「お疲れですか?」と声をかけてくれた。
その優しい響きに救われるような気持ちで、「おすすめは?」と尋ねたところ、勧められたのが担々麺だったのだ。

運ばれてきた丼は、赤く輝くスープの上に白い胡麻の香りが立ちのぼり、肉味噌が山のように盛られていた。
ひと口啜ると、痺れるような花椒の刺激と胡麻のまろやかさが同時に広がり、舌も心も一瞬で虜になった。
その日から、彼の担々麺人生が始まった。

以来、落ち込んだ日も、成功した日も、悠斗は担々麺を食べ続けてきた。
特に「紅龍園」の担々麺は格別で、ただ辛いだけではなく、どこか優しさを含んでいる。
食べ終えるころには、汗で顔が光り、心は軽くなっているのだ。

そんなある日、いつものようにカウンターに座って担々麺を待っていると、隣に女性が腰掛けた。
小柄で、メガネの奥に少し疲れを宿した目。
注文を聞いた店員に、彼女は迷わず「担々麺を」と告げた。
思わず悠斗は横目で見つめる。
担々麺を初めて頼む人はたいてい少し身構えるのだが、彼女は慣れた調子だった。

運ばれてきた丼に、彼女はレンゲを差し入れ、迷いなく啜る。
その表情が一瞬で緩み、静かに「やっぱり美味しい」とつぶやいた。
悠斗は気づけば声をかけていた。
「ここ、常連さんですか?」
彼女は驚いたように顔を上げたが、すぐに微笑んでうなずいた。
「ええ。仕事で煮詰まったとき、ここに来るんです。担々麺を食べると元気が出るから」

まるで自分の言葉を聞いたようで、悠斗は思わず笑った。
それから二人は、担々麺をすすりながら少しずつ会話を交わすようになった。
彼女の名は美咲。
編集の仕事をしていて、締め切りに追われる日々を過ごしているという。

共通の「担々麺好き」というだけで、不思議なほど話が弾んだ。
辛さの好み、胡麻のコクの深さ、花椒の痺れ具合。
気づけば二人は毎週のように「紅龍園」で顔を合わせる仲になっていた。

そんな日々が続いたある夜、美咲から「他にも美味しい担々麺を探してみませんか」と誘われた。
悠斗は即座に賛成した。
こうして二人の「担々麺巡り」が始まったのだ。

都内の有名店から路地裏の小さな店まで、週末ごとに担々麺を食べ歩く。
芝麻醤をたっぷり使った濃厚な一杯、汁なし担々麺、あっさりとした清湯系。
味は店ごとに違うのに、不思議とどれも二人の会話を彩ってくれた。
時には感想を言い合い、時には人生相談を交わし、辛さで涙を浮かべながら笑い合う。

いつの間にか、担々麺は二人の関係をつなぐ糸になっていた。

ある日、再び「紅龍園」で並んで丼を前にしたとき、美咲がぽつりと呟いた。
「ここに来るとね、最初は一人で頑張ってる気持ちを取り戻す場所だったの。でも今は、悠斗さんと一緒に食べる時間が一番の楽しみになっちゃった」

その言葉を聞いた瞬間、悠斗の胸に熱いものが込み上げた。
担々麺の辛さとは別の、もっと温かい熱。
彼はレンゲを置き、少し照れながらも言った。
「俺もそうだよ。担々麺が好きで通い続けてきたけど……美咲さんと出会えたから、もっと特別になった」

二人の間に沈黙が落ちたが、それは気まずさではなく、静かな余韻だった。
スープの表面に揺れる赤い油のように、心にぽっと火が灯った瞬間だった。

担々麺。それはただの料理かもしれない。
だが悠斗にとっては、落ち込んだときに立ち上がる力をくれるもの。
そして、人生を共に歩む相手と出会わせてくれた、かけがえのない縁だった。

その日から二人は、担々麺のように時に辛く、時に温かく、互いの人生を分け合いながら歩んでいくのだった。