祖母の家の納戸には、色とりどりのうちわが何本も並んでいた。
竹の骨に和紙を張ったもの、布地で覆われたもの、祭りで配られた広告入りのものまで。
子どもの頃の私は、そのどれもが宝物のように見え、夏休みに遊びに行くたび一本ずつ手に取っては、ぱたぱたと風を起こしていた。
祖母はよく言った。
「うちわの風はね、ただ涼しいだけじゃなくて、心を撫でるんだよ」。
当時は意味が分からなかったが、祖母の細い手が扇ぐと、蝉時雨の中でも不思議と落ち着いた気持ちになったことを覚えている。
やがて私は成長し、忙しさに追われる都会での生活を始めた。
エアコンの効いた部屋、冷たい飲み物、自動で動く扇風機。便利さに慣れきって、祖母の家のうちわのことなど、長いあいだ思い出すことすらなかった。
転機は、祖母の他界だった。
葬儀のあと片付けで納戸を整理していたとき、埃をかぶった箱の中から、一枚のうちわが出てきた。
白地に、青い朝顔が手描きされた古いうちわ。
裏には、まだ若かった祖母の字で「涼子へ」と私の名前が書かれていた。
幼い私に贈るつもりで残していたのだろうか。
胸が熱くなり、思わずそのうちわを扇いでみた。
ふわりと、懐かしい夏のにおいがした気がした。
それからというもの、私はうちわを持ち歩くようになった。
電車の待ち時間や職場の休憩中に軽く扇ぐと、不思議と心が落ち着いた。
周囲の人はエアコンの風に頼っているけれど、私は自分の手で生み出す小さな風に、祖母の言葉を重ねていた。
「心を撫でる風」。
そうだ、これはただの道具じゃない。
記憶や気持ちを結ぶものなのだ。
ある夏、商店街で「うちわ絵付け体験」の看板を見つけた。
迷わず参加した私は、真っ白な和紙に筆を取り、祖母が好んだ朝顔を描いた。
色を重ねるたび、子どもの頃に祖母と庭で水やりをした光景がよみがえる。
完成したうちわを扇ぐと、鮮やかな青が風に揺れ、胸の奥がじんわりと温かくなった。
次第に私は、友人や職場の同僚にも手作りのうちわを贈るようになった。
派手ではないが、ひとつひとつに「相手の夏が少しでも涼やかでありますように」という思いを込めた。
ある同僚は「エアコンより落ち着く」と言って机に立てかけ、ある友人は「旅の相棒にする」と鞄に差して持ち歩いた。
贈った先でそれぞれの物語が生まれていくことが嬉しく、祖母から受け継いだ小さな文化をつないでいるような気がした。
そして今、私の家の納戸にも、さまざまなうちわが並んでいる。
祖母から受け取った朝顔の一枚は大切に飾り、毎年の夏には自分で描いた新しい柄を加えている。
金魚、花火、スイカ。
扇ぐたび、子どもの頃の記憶と、祖母の優しい笑顔が、風にのってよみがえる。
うちわの風は、確かに涼しい。
けれどそれ以上に、人の心をそっと撫で、過去と今を結んでくれる。
私にとってそれは、ただの夏の道具ではなく、大切な「風の記憶」なのだ。